ヤンゴン・バガン・インレー
2007/8/16〜8/20

仏教の国ミャンマー!
きらめく笑顔の国ミャンマー!
勤勉で素朴で誠実な人々の国、ミャンマー!


旅  程
8月16日(木) 11:45  タイ国際航空にて、福岡を出発
15:05  バンコク/スワナプーム空港 着
 両替・食事
18:10  バンコクを出発
19:00  ヤンゴン 着
 Seasons Of Yangon 泊
17日(金) 6:30  Air Mandalay にて、ヤンゴン→ニャンウー
 バガン遺跡観光
 スパでリラックス
 Bagan Thiripyitsaya Sakura Hotel 泊
18日(土) 7:35  Air Baganにてヘーホーへ
 インレー湖観光
21:00  スパでフェイスマッサージ
 Inle Lake View Resort 泊
19日(日) 9:35  Yangon Airwaysにてヤンゴンへ
 ヤンゴン市内観光
20:00  タイ国際航空 306便にて、ヤンゴン 発
21:45  バンコク/スワナプーム空港 着
23:00  フットマッサージでリラックス

20日(月) 00:50  タイ国際航空 648便にて、バンコクを出発
08:00  福岡空港 着
09:30  N先輩と2人で反省会(慰労会)
 博多駅地下街にてショッピング
10:38  こだまで帰宅


 リタイアし、悠々自適のスタントさん。タイとミャンマーのハーフ。メーラムー・パヤーでたまたま知り合った。初めは「ガイドの押し売りか?」と警戒したが、ほんとのいい人だった。ロンジーをはいていなかった唯一の男性。

 バガンのガイド Min Minさん
 はいているのは男性用巻きスカート、ロンジー。(筒になっている。)まだまだ日本語が苦手ということで、前半は日本語:英語が8:2くらいの割合だったが、後半は、1:9くらい。別れ際は完全に英語のみ。500$の授業料を早く貯めて、日本語の語学学校に行きたいと言っていた。とても正直で誠実な人だった。
 ヤンゴン市内観光をした時のドライバー。歯の間が赤いのは、噛み煙草のヤニ。ボトムは当然ロンジー。彼の英語は、ものすごいミャンマー訛りだった。
インレー湖の船頭 Myo Min Hlaingさん(boat NO,169)。
私がカメラを構えたり、一点を凝視したりしていると、スピードを緩めたり、対象に接近したりしてくれていた。
それに、ワガママ一杯のどんなリクエストにも、常に誠意を持って応 えてくれた。

写真撮ろうって言うと、ロンジーをバシッと締め直し、やや緊張気味にカメラにほほえんだ。
写ってないけど、長髪なのよ。後ろで三つ編みにしていた。

私が着ているのは、現地調達のミャンマーファッション。(上衣がふわっとしていて、「かなり」太って
見える・・・と思う。)
他にも、赤いの青いの白いの黒いの・・・、様々な衣類を購入した。(^◇^;)あと、ジュエリーもね。
みんな、ポリティカルな話題はことごとく、さりげなくさえも語りたがらなかった。
ミャンマーでは、観光客が行っていい所と行ってはならない所がハッキリと決められている。
我々外国人は、ミャンマーのきれいな所だけを見て、満足して帰ってゆくが、それはミャンマーの一部でしかない。

アウンサンスーチーが、「ミャンマーに観光に来ないで下さい。それは現政権を認め、現政権に富をもたらすからです。」
と訴えているということを、最近知った。ミャンマーに行った私の行動が、この善なる人々を更に苦しめることになってしまったということか。




<働く人々>
 オールドバガンの少年
一言も喋らず、気を散らさず、
黙々と描いていた。
 砂で描いた絵。
 全てが手作業で、1枚
として同じものはない。
 
ガラス工房の職人さん
ただでさえ暑いミャンマーで、火を
扱いながら、長時間働いている。
ニューバガンのマッサージ店のお姉さん
 優しそうだったので指名した。汗を流しながら、一生懸命揉んでくれた。頬につけている白い物体は、おしろい 兼 日焼け止め 兼 蚊よけ 兼 清涼剤の「タナカ」。
 私もマーケットでつけてみたけど、乾燥し、すぐにポロポロとはがれ落ちた。
 潤いのない肌だと証明されたということか!!
 後ろに立っているのはこの店のオーナー。店内には表彰状がたくさん飾ってあった。
 私が会ったミャンマーの人々は、みんな手に職を付け、粛々と働いていた。
 
牛を使って農作業
ヤンゴンの少年僧

「サイカー」

托鉢に出発する僧
 ヘーホー空港前でシャカトウを売る少女がいた。私がシャカトウを珍しそうにジロジロ見ていると、迷わず割り、笑顔で手渡してくれた。こうやって食べるんだと、自分も食べて見せてくれた。甘くておいしかった。癒される笑顔だった。
 失礼とは思ったけど、どうしても渡したくて無理矢理100Kを渡した。こんな時、旅行者の私はどうしたらよいのだろうといつも思う・・・。

インレー湖の水上レストランの厨房
 
インレー湖

漆工房の職人さん

インレー・レイクビュー・リゾート・ホテルのドアボーイ
輝く笑顔だ。


<ホテル>
「Seasons Of Yangon(シーズンズ・オブ・ヤンゴン)」
  意外だったのは、空港への迎え。無料送迎サービスがあるのは知っていたが、空港〜ホテルは歩い
て行ける近距離ゆえ、敢えて申し込まなかった。が、空港に着いたら私の名前を書いたネームプレート
を持って立っている人がいる。え?誰??って、最初は分からなかったよ。申し込まないのに来てもらえ
たのは、初めてだ。見落とすところだった。

 エアコンのリモコンが効かなかったのと、バスタブのお湯が抜けなかったのとで、深夜に2回従業員に
来てもらったが、嫌な顔ひとつせず、対応してくれた。施設はイマイチだけど、サービスは◎。他の従業員
もみんな親切で、なかなかよいホテルだった。 
  

 

「Thiripyitsaya Sakura Hotel(ティリピセヤ・サクラ・ ホテル)」
我々が泊まったコテージの入り口
 
中には、少数民族を描いた絵が飾られていた。
現政権の発表では、国内に住む民族数は135。 



民族音楽を聴きながら食事した。
宿泊者には15分間の無料マッサージ付き。
「う〜、極楽〜」と思ってしまう私は、
ただの凡人、ただのオバサン。
ホテルの前はこんな道。
舗装もされず、日曜日の朝も
泥だらけの人々が牛を引き、
行き交っていた・・・。

ホテルはまさに別世界なのだ。
 敷地内に、日本兵の慰霊碑があった。
 今こそ日本人は、謙虚に、アジア全体に目を向けなければならないと思う。
 それは過去のことなんかじゃなく、日本人の「今」を考えることなんだと思う。
 
 アウンサンスーチー著 『希望の声 アラン・クレメンツとの対話』 岩波書店 2000年によると、
旅行者たちに場所を空けるために人々は家を失い村を追われ、道路や橋の建設にも強制的に駆り出されたのだという。
戦争で、軍事政権下で、彼らは耐え続けていたのだ・・・。「極楽〜」なんて言ってる場合じゃなかったのだ。



「Inle Lake View Resort (インレー・レイクビュー・リゾート)」
   

 
一瞬だったが停電があった。

こんなにきれいなホテルだが、通信状況はかなり悪く、レセプションですら国際電話が不能だった。
しかし、レセプションのお姉さんが、どこならかけることができるとか、
イ ンターネットの案内だとか、とても丁寧に教えてくれた。

レストランのウエイター、ひたむきな働きぶりだった。
料理は一皿一皿愛情込めて並べ、説明し・・・。
あまりスパイシーな料理は好きじゃないことを伝えると、厨房に伝えてスパイスを抑えてくれるなどした。
21:00からスパの予約を入れていることを話すと、今度は早足で料理を運び・・・。
一人一人のお客を大事にしている様子がビンビン伝わり、気持ちのよいディナーだった。


フービン・ホテル(2軒あるが、新しい方)

  




<食べ物>
ミャンマー料理は中華料理とインド料理の中間だと言われている。
確かに! 香草も、かなりの頻度で使われていた。
脂の浮いたギトギトの物も多かった。

下痢を警戒し、生野菜や果物は食べないようにしていたが、最終日に我慢しきれず食す。
セーフだった。帰国後も、お腹は絶好調。

・・・・ただ・・・・帰国後測ると、体重が、私の
絶対許せないラインを超えていた!




8月16日(木)入国

ヤンゴンへ着陸直前の風景
眼下に、泥水のような大きな川が流れていた。
護岸工事はされていないようだった。
雨期だからあふれっぱなしなのだろうか?

手書きの国内線チケット
(民間3社)




8月17日(金)バガン観光

これらの仏塔や寺院は、11世紀のバガン王国の興隆からフビライ・ハーンの侵攻(1287年)まで、250年の間に建設された。
47平方キロ(ガイドブックだと62平方キロとある)の平原に、今でも2000余りの遺跡(建設は5000)が点在している。
バルーンに乗りたかったんだけど、乾期だけ運行されるらしい・・。


ニャンウー空港
エア・マンダレー

 初めての体験だったが、
シートは全て自由席
ニャンウーのマーケット

炎天下、いろいろな野菜を売っていた。
 車を降りるなり、たくさんの人が寄って来た。
 そして、誰かが白い花の首飾りをかけてくれた。
絢爛豪華!

「シュエズィーゴーン・パヤー」
昔は女性は回廊までしか
入れなかったそうだ。


ここには仏陀の額骨と歯が納めら
れているらしい。


寺院やパヤーは
全て裸足でお参りする。
 八曜日の祭壇があった。その曜日生まれの人がお祈りをするそうだ。まずは仏像に年の数だけ水を掛け、次に守り神、その後ろの柱、象徴となる動物(私はトリね)の順に水を掛けるとのこと。
屋根の形から、「グービャウッヂー寺院」と
思うのだが・・・違うかもしれない・・。

ビルマ族風、シャン族風・・・
パヤーにもいろいろあるらしい。

おっきなおっきな獅子
 瓶にはエーヤワディ川の水が入っていて、お参りの人は喉が渇いたら飲むらしい。

バガン最大の「アーナンダ寺院」
本堂は一辺63mの正方形
塔の高さ50m

ミャンマーにはたくさんの
菩提樹があった。

「ティローミィンロー寺院」

崩れた煉瓦造りのパヤー
補修(というか、再建)していた。

 周辺にはキュウリやトウモロ
コシなどが植えられていた。

バガンで唯一のヒンドゥー寺院
「ナッフラウン寺院」
931年建立
 道ばたで、大きな黒豚と一緒にいた子どもたち。ビルマ語で話しかけてきてくれたけど、何を言ってるのかはわからなかった。
    日本兵のための鎮魂碑
 私は複雑な気持ちだった・・・。日本は確かに悲惨な戦争をし、異国で無惨にも散っていった。だが、この地は紛れもなくビルマ人のもので、ビルマ人の犠牲者の数も計り知れない。

ティリピセヤ・サクラ・ ホテルの
斜め前にあった。
「タビィニュ寺院」

高さ65m。バガンで最も高い。


仏教説話が描かれたレリーフ
パヤー(仏塔)の上から
 昔は、女がパヤーに登ることは禁じられていたそうだ。ガイドのMinMinに、それって差別だよねって語りかけたが、言ってる意味を理解してもらえなかった。
 女性の地位が男性と違うのは、疑問を感じる余地すらないということなのだろう。だからこそ、先進国のオンナは開発国に出掛けなきゃならんとも思った。

黄金に輝く仏像たち
 今回の旅で、一番気に入った仏像、「シュエズィーゴーン・パヤー」の仏陀。う、美し過ぎるっ!
どんな仏像だったんだろう?
ユネスコの修復は、全体の50%も進んでいないのだという。
 きれいな彩色が施されていたが、野ざらしの状態で、
刻々と崩壊に向かっている。
  


虹が架かっていた。

 大きな船をチャーターし、エーヤワディー川を遊覧した。(小さい舟はなかった。) 波止場では、裸の子どもたちが水遊びをしていた。

学校
たくさんの人が沐浴をしていた。
 インドのカンガーみたいだ。手を振ってくれる人や大声で挨拶してくれる人がいたのがインドと違う。
 大人も1日に2回くらい沐浴するそうだ。
日が暮れ始めた。
 船頭さんが、エンジンを止めてくれた。音もなく、時が止まったかのようなひとときだった。
 ほんの何分間か、スコールが来た。





8月18日(土)インレー湖観光

エア・バガン
 民間3社の中では、機体が一番新しい。

 インレー湖では、家は勿論、
畑さえも湖の上。

ここからボートトリップへ。


ホテルのコテージ

水上寺院
「ファウンドーウー・パヤー」
 ここにある仏像に、女は触れない!

 5体の仏像は、毎年10月のお祭りで村々を廻るのだと言う。

こちらも水上寺院

インレー湖の水深は
乾期で2m
雨期は6m

少数民族のインダー族は、
小舟を片足で巧みに操る。

 いかにも日本人風な後ろ姿のお兄さん(ミャンマー人)。いきなり現れ、ヘーホー空港からインレー湖まで行くタクシーのネゴシエートをしてくれた。親切心からなんだろうか?それとも、「ほーら、ミャンマー人が交渉しても、そんなに下がらないでしょ?」っていうアピールだったんだろうか? お兄さんはいつの間にか消え、結局、タクシー代は一人旅のスペイン人とシェアして安く抑えた。

 p.s. 帰国後、ガソリン代の大幅値上げのニュースを知った。あの時ドライバー達は値上げの事を口々に言っていたが、私は出任せだろうと勝手に判断し、強気だった・・・そういうことだったのか・・・・、困っている人を相手に、ガンガン値切るなんて・・・。訪問先の政治状況を知りもせず、旅行慣れし、根性悪くなっているのは私の方だったんだ・・・。ごめんなさい。

学校に通う子どもたち

ここでは船は自転車代わり
 「孤独」って言葉がピッタリだ。音楽を聴くわけでもなく、誰かと話すわけでもなく、ただ黙って働いていた。
 水上レストランで食事した。マネージャーみたいな従業員が、ものすごく分かりにくい英語でメニューの説明をしたり、厨房に連れて行ってくれたりした。が、催促するまで料理は来ないし、カップにアリは浮いてたし・・・・.。
 
 近所の住民が、湖でお皿を洗っていたんだけど、ここのレストランはどうだったんだろうか?
 パダウン族のみなさん。満月の水曜日に生まれた少女だけが、首や手足に輪をはめ、身体改造していく。(5歳くらいから始め、最高32の輪まで) 悪霊にかまれないためっていう伝説もあるみたいだけど、妻が逃げないように夫が施したのが始まりという説もある。
 彼らもまた、政府から弾圧された歴史を持つ民族だ。お土産品などの売り上げの何%かは、民族解放のために最前線で戦う兵士達に送られているという話も聞いたことがある。人口は推定3万人。

 p.s. 帰国後、「この人たち、輪を取ったら頭を支えきれずに寝たきりかもしれないね。」と同僚に言われた。そうなのだろうか。ショックだった。
 観光客が乗っている舟には、
物売りがどんどん近付いてくる。

 舟同士が接触しても、水中の杭
に当たっても、構わずどんどん追
いかけて、必死の形相で売り込ん
で来た。

 決められた場所にお店を持てな
い人々なのだろうか?





8月19日(日)ヤンゴン観光

明日使える豆知識? →ヤンゴンの語源は「戦争の終結」
→現在の首都はネイピットー
 2500年の歴史があり、仏陀の聖髪を祀っているという「シュエダゴォン・パヤー」

 塔の高さ 99,4m
 基底部の周囲は、433m

 5000を超すダイヤモンドや、1300個のルビー、ヒスイが飾られている。

 尖塔の傘の部分には、きれいな音色の鈴がつけられている。


マハーボディー寺院
 外国人の入場料金は何と5$だった!・・・が、それだけの価値はあった。すごい建造物だった。
 老若男女が真剣にお参りをする姿には驚いた。日本だったら間違いなく王子様扱いされそうなイケメンのあんちゃんもいた。
 みんな目を固く閉じ、ひざまずき、一心不乱に祈っていた。そんな人々の姿に心が洗われた。

祈る人々
 街の中心部にある「スーレー・パヤー」 高さ50m.
 入り口には、雀などの鳥がたくさん売られていた。買って放すと徳が積まれるのだという。
 パズン・ダン・クリークの向こうの「スウェード・ミャッ・ゼディドー」

仏教説話のワンダーランド?
「メーラムー・パヤー」
「チャウッタージー・パヤー」
長さ70m高さ17mの寝仏
 足の裏には仏教の宇宙観が描かれている。
人の大きさと比べてみてね。
まつげの長さは1mなのだそうだ。
 人々の献金でできた仏像だが、寄進者の中には日本人が幾人もいる。
尼僧(少女)の集団
修行(授業?)が終わって「ナーガライグー・パヤー」から一斉に出てきたところ。 男女は完全に別学の模様。
 「ポータタウン・パヤー」
外国人の入場料は2$
 ここでは、お金をねだる尼僧に会った。 私には、信仰とプライドを捨てた、ものすごく情けない行為に思えた・・・。もしかして尼僧は托鉢できないのだろうか?
 路上はどこもかしこも日本車(の中古車)だら
けだった。
 車は右側通行だが、これだけ日本車だらけだ
と左側通行の方が合理的だと思った。
お客がぎゅうぎゅう詰めになったら出発する「ピックアップ」
 荷台からはみ出ていても、誰も落ちたりしないようだ。
 それと、心配なのは、女性の乗客のこと。あんなにぎゅうぎゅう詰めで、痴漢はいないのだろうか?夫か誰か、男性の連れと一緒に乗るのだろうか? もしそうなら、連れがいなくちゃ外も出歩けないということになってしまう・・・・。

取り立てて書くほどでもないのだが・・・・、おトボケなネタを一席。

ミャンマーに限らず、東南アジアの市街地のトイレには紙がなく、基本はビデ。
と言っても、清潔度にいささか問題ありそうな(すみません)、タライと自分の手を使わなくちゃならないので、いつも私はウエットティッシュを使用していた。
が、この日、何だか随分気持ちよさそうなシャワーが、メーラム・パヤーに備わっていたのよね。

寺院歩きで汚れた足も洗いたかったし(寺院やパヤーのお参りは全て裸足。カラスのフンを踏もうと、犬のオシッコを踏もうと、絶対裸足というきまり。)、
どんなもんかと初めてビデを使ってみた。

「きゃ〜、こりゃ〜い〜。」日本のビデと違って水の出る穴が多いので、広範囲にスッキリさわやか。まるでお風呂で浴びるシャワーみたいだった。
手足もついでにしっかりパシャパシャ。

で、使った後に気が付いた・・・。これって、川の水??そりゃーそうよね。飲み水だって、川の水が壺に入れられてるんだものね。
ビデの水だけ塩素消毒された水なんてあり得ないよね・・・。で、急に恐怖を感じた。

インドでは、ガンガーの水に手をつけただけで、N先輩はお腹を壊した・・・。
ガイドブックには、インド人の沐浴の真似をしてガンガーに浸かってはいけないと書いてあった・・・。
万が一浸かっても、局所だけは浸からないようにと書いてあった・・・。
それなのに私は局所めざしてしっかりかけた!(インドとミャンマーの違いはあるけど)

優しいN先輩は、「きっと大丈夫よ、あそこは酸性が強いから、ばい菌がいても入ってこないよ。」と慰めてくれたが、
この年でそんなに健康な酸性度を保っているとも思えず、落ち込んだ・・・。

え?結果?酸性度OKでしたっ。ほっふー(;^ω^)
だけど、今後は慎みたい。
これから行かれるみなさんも、酸性度にかかわらず、どうか気を付けて下さいね〜。





8月20日(月)帰国
眠った。移動中は、ただひたすら眠り続けた。


〜もしかしたらお役立ち情報? その2〜
 ・日焼け止めは、腕の裏側や足の先、衣類の下までしっかり塗りましょう!

〜もしかしたらお役立ち情報? その3〜
 ・携帯電話は全く使えなかった。
 ・「通信機器の持ち込みが厳しく制限されていて、携帯電話が入国で見つかれば出国の時まで管理局に預けられる」って情報に、内心ビクビクしていたが、全く問題外だった!


〜終わりに〜
 アウンサンスーチーの本は、これから注文して読んでみるつもり。せっかくご縁のできたミャンマーだから、もっと関心を持ち、自分にできることを考えたい。

 今回、ミャンマー流社会主義についても、事前にもっと調べておけばよかったと思った。私たちの落としたお金がどのようになったのか、是非とも知りたい。ビルマ人の暮らしやインフラや教育レベルが少しでもよくなることに貢献できたのかできなかったのか、どうしても知りたいと思う。

 軍政ミャンマーの旅は、平和について考えさせてくれる意義深い旅だった。元気な限り、これからも、どこかの国に出掛けてゆきたい。

 旅仲間、随時募集中です。趣味の合う人、連絡してね〜〜っ!「弥次喜多プラス1(or2)」で、見聞を広め、人生を楽しみましょう!




以上、N先輩との2度目の2人旅でしたっ。Thanks!

<追記1>
 帰国の2日後、ヤンゴンでは燃料費の引き上げに対する僧侶中心の抗議デモ(約1000人)が起こった・・・。
 景色はいい、人も優しい、でも政治は国民を満足させていない・・・。それがミャンマーという国だった。



<追記2>2007,09.25
 デモはますます拡大している。(約10万人) 
 デモする僧侶たちを守るように、市民が手を繋ぎ、横歩きしている映像をネットで見た。
 政治的話題はタブーだった国の人々が、堂々と顔を出し、声をあげている。
 ヤンゴンとマンダレーでは、夜9時から朝5時までの60日間の夜間外出禁止令が出たようだ。



<追記3>2007,09,27
 遂に死傷者が出てしまって心が痛む。武器を持たない自国の民に、命令とは言え発砲できるものなんだろうか?
 治安部隊は未明にヤンゴンの僧院をも急襲した。
 ミャンマーの海外危険情報が引き上げられた。


<追記4>2007,09,28
 ミャンマー政府がインターネットを閉鎖。



<追記5>2007,10,07
 民主化デモが武力により鎮圧。インターネット一部復旧。
 夜間外出禁止が午後10時から午前5時までに緩和。



<追記6>2007,10,12
 国連安全保障理事会が11日に採択した議長声明をミャンマー政府が拒否。



<追記7>2007,10.13
 夜間外出禁止が午後11時からに緩和。




COPYRIGHT BY Yoshiko 2007-
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