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CLASSIFICATION
Women's Rights・・・女性差別 Tragedy・・・・紛争、戦争、領土、難民、ストリートチルドレン
Death Study・・・・死の迎え方 FGM・・・・・・・女性器切除、女子割礼
Sexuality・・・・・・・セクシュアリティ Abuse・・・・・・児童虐待、DVD、買春、いじめ
Religion・・・・・・・・宗教 Phychology/Philosophy・・・心
Phsics・・・・・・・・宇宙、科学 Biology・・・・生物、進化
Education・・・・・・教育 Art・・・・・・・絵、彫刻、アーティストの生涯
Handicap・・・・・・ハンセン病、ユニークフェイス、病気 Disorder・・・アダルトチルドレン、自殺
Adaptation・・・・・纏足、宦官、拷問 Biography・History・・・伝記、歴史
Travel・・・・インド、ヴェトナム、ミャンマー、マチュピチュ他 Vegan・・・菜食主義、環境、命、飢餓問題

Women's  Rights
ショワジール・著 中山真彦・訳「訴える女たち」
 ショワジールは、フランスの女性解放団体。侮蔑と暴力とによって奪われた人間の尊厳を取り戻すための裁判が、こんなにも敵意に満ちた視線と妨害の中で行われなければならなかったことに怒りを感じる。そして、裁判から20年以上も経った今でも、有史以来続いた男性中心の文化はさしたる変化も見せていないことに焦りと虚しさを感じる。団結なくして未来を向いて生きていくことなどできない。
久田絢子「イギリス小説と家族イデオロギー」
 特定の家族像が政治的に利用される中で、民衆自身が家族イデオロギーを完成させていった様子が、大局的にも、また小説細部の表現を通して分析的にも捉えられていて、分かりやすかった。ミクロとマクロの統一って、すごいな〜。
西口俊子「日本における男女雇用機会均等法と女性差別
 従来型の女性の役割についての批判と反省なしに、努力義務のみ提示した法律に、もともと社会を方向付ける力など生まれようもなく、何だか格好だけ付けられ裏切られた、そんな法律(改正前の)への考察だ。平成11年の改正で多少の前進は見られたものの、未だ我々は家庭の中でも社会の中でも一人前に(平等に)扱われてなどいない。いったいいつになったら一人の人間として認められるのだろう?
見崎恵子「テクノロジーと女性」
 1980年代初頭以降のマイクロエレクトロニクス(ME)技術革新によってさえも、女性労働は改善されない・・・それは女性労働力が熟練や技能という概念から排除され続けてきたことの結果でもあり、根拠でもある。・・・怒りメラメラだ。(`へ´) 男性がテクノロジーを独占するために、我々は万国共通に、家庭でも労働の場でも性役割の中に押し込められてきた。それを打ち破るパワーを自らが貪欲に求め身に付けていかなければ、性差別はこれからも続くんだと思う。
石田好江「能力主義人事と性別職務分離」
 いろんな学者の論文を紹介したり、そのジェンダーブラインドな点を指摘したりしながら、家庭内の性役割分業を巧妙に取り込んだ日本型雇用管理制度がなぜ崩壊に向かわざるを得ないのかを、シャープに語っている。
竹村和子「フェミニズム」
 「ジェンダーこそがセクシュアリティの物語を捏造し、セックスという身体的性差を事実として遡及的に生産している」という指摘は、私にとって青天の霹靂。これまでどこか釈然としなかった数々の疑問がスパッと解けた気がする。そう、世の中は全てそこから始まった。我々がこれからどこへ向かえばいいのか、今後はもうちょっとクリアに私にも見えて来るかもしれない。身体的差異なんて、ほんとにどうでもいいことなのだ。
上野千鶴子「性愛論」
 女性が語る、女性の性愛論。
上野千鶴子+メディアの中の性差別を考える会編「きっと変えられる性差別語」
 暮らしの中に、こんなにも差別的な言葉が存在し、その差別性に気付きもしないで生きてきたなんて、自分がいかにも愚かで恥ずかしい。それは私自身が性差別を再生産し続けてきたということだから。編者たちのような鋭い感性とスキルを身に付けたい。
上野千鶴子「生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠」
 罠にハマっちゃいけない。妥協も中途半端もダメ、信じる道をまっすぐに進むしかない。「女らしさ」を強調したり、誰かに尻尾を振ったりする人間にはなりたくない。
上野千鶴子「女は世界を救えるか」
  
石原里紗「さよなら専業主婦」
 「ふざけるな専業主婦」と「くたばれ!専業主婦」に続く専業主婦攻撃第3弾。軽いノリでさらさら読めるものの、専業主婦でいることが、まるで個人の不見識によるものであるかのような書きぶりには、ちょっと閉口。なぜこの日本には無職の成人女性が1800万人もいるのか、女性が社会に受け入れられない(=社会が女性を拒絶する)”からくり”に目を向けることなく個人攻撃しても埒は明かない。専業主婦とそうでない女という二極に女を分断するやり方にも反対。
田嶋陽子「愛という名の支配」
 男社会のアンデンティティしか持たない私たちが、「らしさ」を拒絶することが本当にできるのか疑問だが、「女らしさを演じれば演じるほど、女全体の価値を落としていく」という著者の指摘は的を得ていると思う。女が人間らしさを取り戻すために(ただでふんだんに使える資源として搾取され続けないために)、我々は性役割を見直し自立しなければならない。
田嶋陽子「だからなんなのさ!」
 <第1章> 我々が飯炊き女だってハッキリ言ってくれた著者に感謝。結婚制度が差別の制度化だってことにも、私はいい年になるまで気付かなかった。(・・・と言うより気付こうとしなかった。)プライドを持って自分らしく生きていたい。
 <第2章> 「女で受け身の人ほど他人の価値観を気にし、他人の価値観を内面化して生きてしまう」・・・耳がイタタ。
福沢恵子「オフィスのジェンダー革命」
 将来のオフィスは選択的トランス・ジェンダーの時代になるだろうという単純な結論。ジェンダーの縛りからちっとも脱していない・・・。
土佐桂子「社会の中の女性、精神世界の中の女性」
 ビルマでは、大学教育に女性の占める割合が男性のそれを上回り、公務員の勤務内容や給料にも男女差はなく、相続権だって平等だ。しかし、信仰の中心、上座部仏教では、輪廻の中で悟りを開くには、まず男性として生まれることが必要とされ、バゴダの上部にまで登っていいのも男性だけ。また、ナッと呼ばれる精霊は、仏教のヒエラルキーにおいて男性より下で女性より上なんだそうな。へ?何それ?人は生まれながらに不平等なのね?教祖の真意とは違う価値体系を、後の世の人々が都合よく創ったのだと開き直ればそれまでだが、そこのところの矛盾にメスが入れられなければ、ほんとの平等なんかじゃないって気もする。
鳥居千代香「インド女性学入門」
 こんなにひどいダブルスタンダードが世の中にあっていいものなのか。紀元前2世紀頃に創られた法典に縛られることの意味を問う人が、ほんとにインドにいないのだろうか?E・ビューミラー著「インドの女の物語 100人の息子がほしい」の第4章「ベールの陰に〜カジュロン村の女」と第5章「ノーモア・リトル・ガール」を読んだ。社会や政治から切り離され、 囚人か奴隷同然の暮らしをしていながら、それを運命と諦め、そこから抜け出そうともしない(できない)女達の姿に、胸が締め付けられる。女は生まれる前から差別され、社会全体に追い詰められ、それでもインド社会を支えている。
E・ビューミラー「インドの女の物語 100人の息子がほしい」
 第4章「ベールの陰に〜カジュロン村の女」と第5章「ノーモア・リトル・ガール」を読んだ。社会や政治から切り離され、 囚人か奴隷同然の暮らしをしていながら、それを運命と諦め、そこから抜け出そうともしない(できない)女達の姿に、胸が締め付けられる。女は生まれる前から差別(胎児が女と分かれば80%の妊婦が中絶を希望する。出生後、放置されたり毒を飲まされたりして殺されるのも圧倒的に女児が多い。)され、社会全体に追い詰められ、それでもインド社会を支えている。

Tragedy
武光誠「世界地図から歴史を読む方法」
 民族の移動や抗争の歴史。
桑原史成「報道写真家」
 桑原史成の生がそこに凝縮されていた。報道写真家とは、カメラを通して人間の真実と生の尊さを語る仕事なんだと思えた。
ボブ・グリーン著、井上一馬 訳「ホームカミング」
 ヴェトナムからの帰還兵に対するアメリカ社会の嫌悪あるいは歓迎ぶりについて、たくさんの当事者が手紙の形で語っている。が、他国に生を踏みにじられたヴェトナムの人々への思いだとか、戦争責任とかを語る元兵士はほとんどいなくて、なんだか独善的っていうか、一国至上主義が見えて悲しい感じ。自国でどれだけ傷付いても(自国では被害者であっても)、ヴェトナムでのアメリカ兵はやっぱり加害者だ。愛する祖国に命じられたことを国民の義務として果たしただけの、名も無き善良な若者であっても。
 本の表紙は、片足の帰還兵が松葉杖を放り出して女性と抱擁を交わしているシーン。この抱擁のために、傷付き、命を失った人が、どれだけいたことだろう。
朝日新聞北方領土取材班「北方四島」
 足を使った地道な取材に頭が下がる。北方四島があんなに貧しいなんて知らなかったし、郷土愛を持って住み着いている島民の気持ちも、領土争いに翻弄された先住のアイヌ民族のことも、住民の暮らしぶりだとか望みだとか、特攻船(日本の密漁船)のことだとかも、今まであまりに知らなさすぎた。何の悪意も持たない普通の暮らしが今そこにあるってことがリアルに伝わってきて複雑な思いだ。。
広瀬隆「チェルノブイリの少年たち」
 子どもたちが家族とも別れさせられ、病気と闘うことすら許されず、人知れずバタバタと死んでゆく姿はあまりにも無惨だ。我が身を捨ててふるさとを守ろうとする人がいる一方で、親から捜されないよう子どもを別の名前で入院させ、死ぬまで隔離して事件を封殺しようとする国家の姿に怒りを感じる。クレムリンはこれほどの重大事故に関わる事実を都合のよいように歪曲し、国民と全世界を欺き続けた。子どもの死亡も一人として公表せず、たくさんの命と悲しみを闇に葬った。国民は何も知らされないばかりか、度々出される安全宣言によってだまされ続け、近隣諸国では子供たちが大量のガスを吸い続けて成長期を送った。保身のために我が身以外の全てを軽視するその姿、何と醜いのだろう ! 
アリ・ジャン「母さん、ぼくは生きてます」
 日本に来たアフガニスタン青年の作。どうしても我が子の姿とオーバーラップし、涙なしでは読めない。18歳で来日して以来、23歳の今日まで、よくぞ耐えてくれたと思う。アリ・ジャンには、何が何でもこの日本で生き延びてほしい。私たちの日本が、命の危険にさらされている青年を放り出すような国であってほしくない。裁判(難民不認定処分の取り消しを求めた訴訟:2005年11月、東京地裁で勝訴)が、最後までうまくいきますように!
「対馬丸 さようなら沖縄」
どういう経緯で沖縄から学童が運ばれることになったのか、また撃沈後の隠蔽の様子など。当時の軍部や官僚のいやらしさも再確認。
保阪正康「あの戦争は何だったのか」
 著者は「昭和史講座」や「昭和史を語り継ぐ会」の主催者。「あの戦争に日本人の国民的性格が全て凝縮している」・・・ほんとにそうだ。日本人のうちのいったいどれだけの人が、あの戦争を感情論ではなく一面的でもなく、総体として捉えようと試みただろう?あの戦争が何だったのか考えることは、今何をすればいいのかを考える基盤に他ならない。知ろうとせずに済ませてきたことが多過ぎる私にぴったりの、自分の愚かしさを再確認できた本。
宮崎 進「鳥のように シベリア記憶の大地」
 「過酷などという言葉ではおさまらない歴史が、何もなかったかのように消されつつある。語り継がねばと思った」 ・・・重い言葉だ。 著者の4年間と、その後の人生が詰まっている本。
早乙女勝元「アウシュビッツからの手紙」
藤原 彰「岩波ブックレット シリーズ昭和史NO,5 新版 南京大虐殺」
 あまりに凄惨で言葉にならない。真相の解明を、都合の悪いもの(国益に反するもの)として嫌がる自由など、加害国日本にはないはず。著者が言うように、南京大虐殺は現在の日本に無縁な過去の出来事などではないし、情報統制で過去に知らされなかったからといって、何者にも代え難い深い傷を負わせた南京を我々が知らなくていいはずがない。ましてや死者の数が違うのなんの、そんなことを言う資格が、果たして我々にあるだろうか?
本多勝一「中国の旅」
 これだけ丁寧に取材して、こんなに詳しくレポートしている本多勝一さんを、改めてすごい人だと思った。
本多勝一「検証 カンボジア大虐殺」
 たくさんの命と引き換えにカンボジアが、人類が得たものは何だったのだろう?
野平俊水「韓国人の日本偽史」
 第1章を読みかけて、ウェップとなった。日本と韓国はかけがえのない隣人たり得ないのだろうか?韓国人をバカにしたような記述が多くて、ゲンナリした。
産経新聞社会部 著「アジアの子供たちは、今」
 第1部「カンボジアから」 〜 わずか4年弱のポル・ポト政権時代に国民の3分の1近い人々が亡くなったなんて、何て異常な事態なのだろう。医者や教師もほとんどが処刑され、35万人もの人達が難民となった。こんな中でたくましく生きてきた子どもと大人たちに、心から拍手を贈りたい。日本はカンボジアのために貢献できることが、もっとあるんじゃないだろうか?
遠野はるひ「基地の女たち」
 基地の町のすぐそばで育ったにもかかわらず、米軍のアジア侵略に連動して買春地域がつくられてきたなんてこと、今まで全く考えずに生きてきた自分が、とてもうかつで間抜けに思える・・。米兵と連れだって歩く日本女性の姿も、今まで全て自由恋愛だと思い込んでいた。アメリカの軍事支配を支えるために利用され自国にドルをもたらすのは、どこでも(タイでもフィリピンでも香港でも日本でも)一番貧しい女たちだ。米兵から基地買春を引き継ぎ観光買春に勤しむ日本の企業戦士たちの姿も、とても傲慢だ。軍事的あるいは経済的に侵略する男たちが、現地の貧しい女を搾取し、それに助けられて暮らす良民たち・・・この構図から抜け出さなければ、アジアに幸せは来ない。
山田盟子「従軍慰安婦〜兵備機密にされた女たちの秘史」
 女はただの補給物資扱いだ。知らなくていいわけがない、忘れていいわけがない。
「慰安婦問題Q&A 自由主義史観へ 女達の反論」
 自虐史観だと言って、慰安婦問題を無かったことにしようとする人達に怒りを覚える。
工藤律子著「ストリートチルドレン」
 2万人を超すメキシコシティのストリートチルドレンが、どのようにして増えていったのか、子どもたちが大人社会の荒廃にどう影響されたのかが分かる本。国の経済環境がどんなに変わろうとも、貧しい者が決して豊かに暮らせない社会の仕組みについても確認できる。子どもが運営するNGOや、フェアトレードの考え方についてはびっくりしたが、明るい見通しもあることが分かって少し安心した。
工藤律子・文 篠田有史・写真「勇気ある母親になりたい〜メキシコの幼きシングルマザーの闘い」
 女だというだけで、どうして我々はこんなにもさげすまれなければならないのだろう。心安らぐ場であるべき家庭内でさえ、少女たちはなぜにここまで見下され、傷つけられ、こんなにまで苦しまなければならないのだろう。この本は、卑劣で心ない大人の犠牲になった少女たちが、ひとりの人間として、母親として、やっとの思いで輝き始める様子を伝えており、10年以上ストリートチルドレンを取材してきた女性らしい視点のルポだった。NGO=愛することを教える大人たちがどんなに重要な役割を果たしてきたかもよく分かる。
「過酷な世界の天使たち」
 大人の醜さ・汚さ・愚かさが、子供の犠牲によって贖われている。今、世界に生まれる子供の10人のうち9人までもが開発途上国で育つのだと言う。偶然にも先進国に生まれたというだけで、我々は安穏と暮らしていていいのだろうか。
盛田隆二「ストリート・チルドレン」
 300年間にわたる一族の軌跡を描いた小説で、時間の展開が早いし、登場人物がたくさんだし、おんなじ名前の別人も出てくるので、ぼんやり読んでたら家系がよく分からなくなる。実はこの本、路上生活する少年たちのことが知りたくて、ネットで検索して買った本。今後ネットで本を買う時は、書評をちゃんとチェックして買います!
安哲・朴東明「北朝鮮飢餓ルポ」
 私は今まで、テレビに時々出てくる北朝鮮の市場の映像は、日本人の命知らずのルポライターか何かが撮った映像だと思っていた。あれが北朝鮮を心から愛し、郷土の再生を命がけで願う北朝鮮の若者が撮ったものだったとは。そして、こんなにも苦難に満ちた中で世に出たということに感動した。食べること最優先の飢餓を経験した人が、ここまで政治的になれるってすごいと思う。ここには一般市民の生活苦もありありと描かれており、人間としての尊厳も命も踏みにじる国家への怒りを感じる。配給もしないのに社会主義を標榜するなんてことが許されるのだろうか?
「北朝鮮大崩壊」
 呉吉男さんの「死の収容所にいる妻への手紙」などは、涙なくしては読めない。自分の判断ミスで家族と生き別れたつらさ・家族への思いが、切々と綴られていた。第2部の「亡命者が語る衝撃の実像」に書かれている内容は、ほんとのことなのだろうか? テレビなどでも有名な、元対南特殊工作員・安明進さんの証言や、元ウラン精錬工場排水班長・金大虎さんの証言などからは、独裁国家というモンスターが貧しい人間を徹底的にいじめている、そんな光景が見えてくる。罪なき人民を独裁者から救い出したいという欲求がこみ上がってくる1冊。
李友情「金正日入門」
 これ、ほんとの話なのだろうか?独裁者だからと言って、こんなことが許されていいのだろうか?韓国で発禁になった本。

Death Study
柳田邦男「犠牲(サクリファイス)〜わが息子・脳死の11日〜」
 心優しい息子洋二郎が友もなく、自死の道しか選べなかったその境遇が、あまりにも悲しい。人はいったい何のために生き続けねばならないのか、そして、人の死(人としての死)とはいったい何なのだろう。 家族はいのちを共有し、脳死の身体でも対話できるのか。死んだ息子洋二郎の魂の救済のために自分が再生しなければならないという柳田さんの決意にも、胸を締め付けられる。絶望と挫折の中のひたむきさ・・、洋二郎が書き遺した多くの言葉に、敬意を感じずにはいられない。
遠藤周作「死について考える」
 死への準備は必要だ。美しく老いる気持ちも大切だ。そして、死にゆく人に、どう接すればいいのか、ふと考える。今年5月、100歳で大往生した祖父の、あの目を思い出す。生きている祖父に会った最後の面会時、もう喋ることはなかったけれど祖父の目は確かに語っていた。あの時私は遠藤周作の言う人間的連帯が示せただろうか?共感とか慰めとか、感謝とか・・・、孤独を癒す役目が果たせただろうか?そんなことはできなかったことに気付いて、はっとした。死は、自分の一部でもあるというのに。グリーフ・エデュケーションについては、授業でも取り組んでいきたいものだと思った。 
シモーヌ・ド・ボーヴォワール著・杉捷夫訳「おだやかな死」
 死にゆく母に死期を伝えなかったことをボーヴォワール自身が少しも悔いていないのが意外だったが、それがかつての支配者への反発であり、母の人生に与えた彼女の評価だったのだと思うと、母親が哀れだった。治ることを期待し、一日一日を大切に生きようとした母親だったがゆえに、彼女は騙さざるを得なかったのだろうか。
おかふじみちこ「ぼくが生きるということ」
 ボーヴォワールの「おだやかな死」と正反対だと思ったところは、「ぼく」の家族は、母と全てを伝え合い、感謝し合い、穏やかなお別れをしたということ。そして、同じだと思ったのは、母が「死」までの時間を大切にし、遺された家族に、「生きる」ということを教えてくれたことだ。おんおん泣きながら読んだ。死とは、何て悲しい別れなんだろう。人生とは、何と突然に幕を引くものなんだろうか。
山崎章郎「病院で死ぬということ〜For patients,nurses,doctors and all other people」
 延命治療とは、なんと罪深いものなのか。また、豊かなはずの日本の医療が、いかに淋しい人たちを生み出し続けてきたことか。死を他人に牛耳られるなんてことが、ほんとにあっていいのだろうか?
山崎章郎「続 病院で死ぬということ」
 今日本では、90%の人たちが病院で死を迎え、年間24万人もの人たちがガンでこの世を去っている。しかし、それにも拘わらず、多くの場合、末期医療は快復を目標に行われ、尊厳ある死から人々を遠ざけている。死は誰にだって必ず訪れるものなのに、どんな死に方ができるかを考えたり、自ら死の準備をしたりする時間は、ほとんどの人に与えられないでいる。治ると信じ、親しい人とのお別れもせずに、苦しみの中で息を引き取るのはイヤだ。自分の生を振り返り、満足を感じてこの世を去りたい。
 この本に出会うまで、在宅で痛みをコントロールしながら死んでいく道もあるなんて、全然知らなかった。折しも、フロリダ在住のテリーさんの安楽死を巡り、テリーさんの夫と両親が争い話題になった。どんなに若くても健康に自信がある人でも、1度は死に方についての希望を身近な人に伝えておかないといけないと思った。
近藤誠「がんは切ればなおるのか」
 いかに手術や抗ガン剤が意味のないものかが繰り返し述べられていて、当事者となったら相当迷いそうだ。だけど、私には昔からガンになる確信みたいなものがあるので、選択肢が増えてちょっと嬉しい気もする。
アルフォンス・デーケンと鈴木康明の対談
「生と死の教育」著者と「デス・スタディーズ入門」の著者の対談。自分なりの死生観を身に付けることの大切さ、いつか必ずやって来る大きな別れを乗り切る力を育てることの大切さについて。
岩田隆信「医者が末期がん患者になってわかったこと」
 命の灯が燃え尽きるまで、職業人であり続けたDrの日記。患者でなければわからない心の動きが、克明に綴られている。
内藤いづみ「最高に幸せな生き方死の迎え方」
 こんな死に方を目指そうと思った。それには地元にも緩和ケアのできるチームが必要だ。こんなにもたくさんの人がガンで亡くなる時代に、山口県東部には、まだそれがない。「何かしなくっちゃ。」そう思った。山梨県の医師である著者は、在宅ホスピスの草分け。何もない所からこつこつと築き上げ、ここまでの成果を上げてきた。「臓器にではなく人間に向き合いたい」という言葉に嘘偽りはないだろう。心ある素晴らしい医師だと思った。
柳美里「命」
 生と死の岐路で苦しむ姿が痛々しいけれど、ほとばしり出る、ものすごいエネルギーの中で生きる彼女が羨ましいような恐いような・・・。愛に飢え、結局は誰も愛せない・・・そんな人だと思った。嫉妬は自己愛の裏返しなのかもしれない。焦りや自己嫌悪、そして自尊心も、激しく哀しく伝わってきた。
逸見政孝「ガン再発す」
 家族を失う苦しみ。自分自身と向き合うということ。
佐藤光房「遺された親たち」
 交通事故で愛児を奪われて苦しむ遺族の姿が切な過ぎる。だが、少しずつだが確実に社会は変わってきている。遺族一人一人の血を吐くような叫びによって。あまりに尊い犠牲だ。

FGM
アリス・ウォーカー「カラーパープル」
 黒人であることと女性であることの二重の差別。しかも、自分の置かれた境遇を、諦め、受け入れ、差別されていることにすら気付かない。そんな女性の独白文。独白相手は神様・・。彼女にとって信仰は、人間の尊厳を保つための最後の砦なのだと思う。
アリス・ウォーカー「喜びの秘密」
 こんなにいっぱい泣いて読んだ本は柳田邦男の「犠牲〜サクリファイス」以来だ。
 文学作品としても、民俗や心理学の書としても、かなり秀逸な作品だと思う。(太鼓判!) 12人の独白で全てが構成されていて、時系列で表現されてないし、関係性も難解で、全体像がなかなか見えないんだけど、イスラムの平等を重んじる考え方だとか、それゆえ生じる現代人とのギャップ(一夫多妻の苦しみ)だとか、FGM(女子割礼)の悲惨さも、それに、アフリカオリンカ部族が守り続けようとしている伝統がどんなものかも、少しずつ見えてくる。
 前半のランダムで分かりにくい内容は、後半で全て繋がっていく。その全体と細部がクリアになるにつれ、人間のアイデンティティークライシスをここまで繊細に語る人がいるものなのかと感心。
 また、こんなにも残虐過酷なFGMの姿を知る(読む)のは初めてだ。閉じ合わされた性器を夫が初夜にナイフで切り開くなんて。そして自分の快楽のためだけに、傷が癒える時間を妻に与えないなんて、女性にとってこれ以上の拷問があるだろうか?自分を愛おしむ気持ちとか、自己肯定観は完全に否定され、それでも耐える妻を持つ夫だけがその村で生きる権利を与えられる。妻の母親も、娘に共感などしない。これが現実に今でも多くのアフリカ女性に行われている伝統・・・ものすごいショックだ。そして、私がこの本によって気付かされたのは、この悪習の廃絶を阻害するものは、他でもない我々文明国の精神的侵略なんじゃないかということだ。悪い習慣だからやめましょうなんて、いくら声を大にして叫んでも、アフリカ社会への傲慢な精神的侵略をストップしなければ、彼らは自らのアイデンティティーの証のために、かたくなに風習を守るのではないのだろうか。
 タシ(主人公)の死は、なんて主体的で完璧な死なのだろう。刑場への途上で、タシの家族が掲げていた横断幕、そこには「喜びの秘密は抵抗」と書かれていた。虐げられ、支配され、苦しんでいる全ての女性を救う言葉だと思う。パワーみなぎる作品だった。
 私たちは、イスラム社会を知らなさ過ぎる。違いを認め合ったり補完し合ったり、そういう行動が取れなければ現代の地球人たり得ないんじゃないだろうか。
「奴隷にされた少女メンデ」
<第1部>「生きながら火に焼かれて」のスアド(シスヨルダン出身)に比べると、スーダンでは、よりのびのびとした子ども時代が送れるらしく、そこだけは救いに思った。が、男のためのFGMや早婚が、少女たちにどれほどの災いをもたらすか、ありのままに描写してあり、言葉を失ってしまう。どちらも痛みに七転八倒し、ベッドから起きあがることもできず、排尿もできない。よりよい出産も望めず、感染症に苦しみ、命を落とす少女も多い中、それでも男たちは「狭い」女としか結婚しない。女の性は男の満足のためだけにある。初夜に1ヶ月以上も起きあがれないほどの傷を負わされるなんて、誰しも我が事として考えれば、それがどんなに残虐か分かりそうなものだが、女性に人権がない以上、この悪習は今日も受け継がれ、少女たちを傷付け続ける。これもまた、「美しいふるさと」に存在する奴隷制度のひとつの姿なのだと思うと、怒りと悲しみが込み上げる。
<第2部>これが現実だなんて、あまりにむごくて目を背けたくなる。私達の世界は、ほんとにこれほど冷酷なものだったのか。夢を持ち、大人に守られ大切にされるべきローティーンが、大人の毒牙にかかり人生を奪われ、さげすまれ虐待され、踏みにじられレイプされ、救われずにいるなんて。少数民族であるがゆえに、いかにも当たり前とでも言わんばかりに。加害者側の人間であることに間違いないのに、いかにも善人然として眉をしかめ、少なからず傷付く自分も腹立たしい。
<第3部>自由ってこんなにも尊いものなんだと思い知らされた。と同時に、シビリアンパワーの底力にもほっとした。ジャーナリストや弁護士、世界中の読者のパワーが、メンデの亡命を拒否したイギリス政府の決定を覆させ、奴隷制度をごまかしてきたスーダン政府にそれを認めさせたのだから、世の中一歩一歩でも進歩しているんだと信じたい。今日もなお世界中で奴隷として虐げられている全ての女性や子どもたちが、1日も早く自由の身になれますように。
スアド「生きながら火に焼かれて」
 イスラム女性の嘆きと叫びがしっかりと伝わる貴重な1冊。語り手は、大やけどの末ヨーロッパに亡命したイスラム女性スアド。
 彼女が育った村では、女性には生きる権利がない。(生死は父親や兄弟、夫が握っている。)自分で物事を考え判断する自由もない。学校にも行けない。勿論、夫を自分で選ぶことなど許されてはいない。掟を守ることだけが自己実現の手段になってしまっている。(日本の女性たちが戦時中、銃後の母として必死に耐え、中央アフリカの老女たちがFGM廃絶に反対し続けている姿とオーバーラップする。) 彼女は、自分の正確な年を知らない。些細なミスで、毎日父親に叩きのめされる。妹達は、何人も消えていった。女性に生まれたというだけで、家族によって殺されていった。
 「名誉の殺人」は、ヨルダンやシスヨルダン以外にも、パキスタン、インド、イスラエル、トルコ、イエメン、イラン、イラク、ヨーロッパですら起きているのだという。これまで何万人の女性が犠牲になったか分からない。そこには、その数以上の加害者が存在する。呆然としてしまう。
 それにしても、幸せなどひと時として感じることのできない子ども時代を送ったスアドのどこに、20歳以降になってこれほどの自己肯定観を獲得するエネルギーがあったのか、不思議ですらある。知識を得るということは、かくも果敢に人を立ち直らせるということなのだろうか。
 スアドと同じような体験をしている女性は、今でも世界中にたくさんいる。この本が出版された意味は大きい。私達は世界中で起こっている、女性ゆえに降りかかるこうした苦難を、まずは知らなくてはならないし、連帯しなければならない。聞き取りし、執筆したジャクリーヌに心から敬意を表したい。ジャクリーヌが属するスイスのSURGIR(シュルジール=出現)は、これまで51人の少女を救い出したということだ。
「砂漠の女ディリー」(原題「DESERT FROWER」)
 スーパーモデルの自叙伝。彼女は老人との結婚に抵抗して家出。5歳の時に受けたFGMの様子や、その後の彼女の人生について。
 ここのところアフリカ女性の書いた本を続けて読んでるが、アフリカ男性やイスラーム男性の書いたものも読んでみたい。男性は、何千年も受け継がれてきた女性への暴力をどう捉えているんだろうか?
プーラン・デヴィ(口述)「女盗賊プーラン」
 私がインドにある女性差別、身分差別を初めて詳しく知った本。1996年のインド統一選挙で当選した文盲の国会議員の半生記。踏まれても、なじられても、辱められても立ち向かう、人間らしく生きるために戦い続けたプーランって、ほんとにすごい人だ。亡くなってしまってとっても残念だ。
内海夏子「ドキュメント女子割礼」
 読んでて力が抜けた。著者は、男優位の社会の中で女のジェンダーとセクシュアリティをコントロールするためだと書いているが、宗教とも関係ないのに、なんでこんなにも多くの国(アフリカの約28ヵ国)に女子割礼が存在するのだろう?(宗教が教える男性の割礼とは全く違う。) 21世紀の今でも、エジプトでは、結婚前の女なら誰でもしなければならない常識なんだとか。(2000年のエジプト人口健康統計調査では、既婚女性の97%が受けているそうだ。)シエラレオネでは伝統的な社会集団への加入儀式として行われ、親たちは一人前の女性として社会に受け入れられるようにするために積極的に娘たちに割礼させるらしい。WHOの推定では、全世界で毎年200万人近い少女が割礼を受けているという。読んでてほんとにくらくらするドキュメントだ。ここでは、痛みや感染症、大量出血、トラウマ等々、たくさんの弊害も報告されている。
 集団による性的抑圧(受動性の確保)という暴力は、いかにも前近代的な響きだが、政治と特定の利益団体との癒着が解決を阻んでいて近代的でもある。医者までもが割礼に加担しているなんて、怒りが込み上げてくる。少しずつでも廃絶に向けて動き出していることが、何よりの救いだ。1日も早くこの悪習がなくなりますように。
フラン・P・ホスケン 著 鳥居千代香・訳「女子割礼〜因習に呪縛される女性の性と人権〜」
 
ファウジーヤ・カシンジャ「ファウジーヤの叫び」
 命までかけて女性器をそぎ落とす慣習は、ただ、夫となる男のためだけにあるらしい。鎮痛剤も麻酔も使われず、ナイフは消毒さえされない。身の危険を避けようとする少女ファウジーヤが、異国ですら犯罪者扱いされるなんて、社会はなぜにこんなに無力なのだろう。信仰深いということは、差別に気付かず生きることができるということなんだろうか?
アマン(口述)「裸のアマン」
 17歳でケニアへ自力脱出するまでの、ソマリアの少女の物語。壮絶な人生だ。軽率な判断に見える場面もあるが、アマンにとっては生きるための最善の選択の連続だったのだと思う。教育さえ受けることができていたら、もっと別の人生があっただろう。FGMのくだりでは、力が抜けた。女だけに課せられる命がけの儀式。高熱にうなされても、排尿の度に焼きごてを当てられたような痛みを味わおうとも、性の自由を奪われようと、少女達は進んで割礼を受け、それを誇る。洗脳と欺瞞に気付かず、健康を害し、支配され続ける・・・。

Sexuality
ジョン・マネー、パトリシア・タッカー「性の署名」
 日本では、ジョン・マネーの著書の中で、最初の翻訳本。性教育をヒステリックに非難する人々に読んでもらえるといいな。
中山み登り 「打たれ強い女でいこう」
 散々笑いながら読み終えた。十分楽しませてもらって云々言うのは悪いけど、著者はジェンダーにバリバリ縛られてしまっていて、心の自由を失ってしまっている。日常、若い子と話していてもそう感じることが多いのだけど、世の中で定着している男女の姿に収まることが、大人になる(1人前になる)ってことではないだろうに、自ら自分の人生を既存の型に押し込めるなんて、あまりにもったいない。
「ジェンダーフリー・性教育バッシング」
 誤解と思い込みの中で繰り広げられるバッシングの正体。子どものエンパワメントを育てる以前に、教師自身がエンパワメントされないと、教育なんてできない。
「同性愛・多様なセクシュアリティ」
 いろんな先輩が、やむにやまれぬ大和魂で授業に取り組んでおられ、尊敬と憧憬を感じる。
「同性愛の基礎知識」
 ホモフォビアが女性差別の延長線上にあることがとってもよく分かる本。同性愛者が差別される社会は、女性をはじめとする性的マイノリティが差別される社会ということだ。
馬場英行「同性愛者として誇りを持って生きる」
 著者は、本名でカミング・アウトし、国やマスメディアを相手に差別を告発し闘い続けてきた人。命を賭けて闘ってきた。ストレートなら0からの出発なのに、ゲイゆえに0地点からスタートできないなんて、なんという差別の醜さよ!
蔦森樹「男でもなく女でもなく」
 どうしてかくも客観的に詳細に自分が語れるのか不思議だ。ここまで丁寧に自分の心を見つめたことが、私にはない。何か追究すべき問題が自分の内面に起こっても、ますます苦しくなるのが分かるから、ただ見過ごしてきた。私にとってそれも1つの智恵だったのかもしれないが、それらを蔦森さんみたいに冷静に言語化できないできたことが、私の視野と人生の選択肢を狭めてきたんだと思った。
吉永みち子「性同一性障害」
 丁寧で誠意ある取材ぶりだ。そこに登場する人々の気持ちに寄り添いながら読み進めることができた。
上川あや「自然に電車に乗れるまで」
 MTF。車窓から流れゆく景色を眺めたり、誰の目も気にせず電車で読書に没頭したりする、そんな些細で当たり前の自由が、やっと彼女にも保障されるようになった。
寺島佳代「我が子にもらった多くの出会いに感謝!」
 寺島さんは私と同世代。こんなにも強い愛情でFTMの我が子を支え救った彼女に心から拍手を贈りたい。彼(元娘)の下には3人の弟たちもおり、毎日が時間との闘いだったと思う。また、ただ一人の娘ゆえ母親としても同性としての期待みたいなものも本当はあったのではないかと思う。が、寺島さんは彼(元娘)の苦しさ・生き難さを救いたい一心で、学校にも裁判所にも役所にも働きかけ、できる限りの支援を惜しまなかった。すごい実行力だ。そんな寺島さんの子として生まれることができたがゆえに、彼も自分の思いをつつみ隠さず表現し、自分らしく生きることができたのだと思う。スカートや健康診断の強制を死ぬほど嫌悪し学校に行かれなくなったり、対人恐怖症になったり、彼の身に降りかかった困難は想像を絶するものだ。15歳にして、私なんかよりたくさんの人生を生きてきたと思う。彼の苦しみを目の当たりにした家族は胸を引き裂かれる思いだっただろう。彼らの「希望に向けての大きな決断」に心から敬意を表したい。
上野千鶴子・伊藤比呂美 共著「のろとさにわ」
 何て素直でストレートでアグレッシヴな感性。ほとばしるエモーション。巧みで刺激的な言葉すら、彼女たちの炎のような内面を代弁できずに困惑する子どもみたいだ。この2人、最強のコンビだ。こんなにも個性をぶつけ合い、しかも妥協せず、相手へ攻撃を仕掛け続けるコラボレーションなんて、滅多にない。
小倉千加子「アイドル時代の神話」
 「結婚している女の中には、結婚しないままでは攻撃から身を守る防衛壁が薄過ぎると自覚している女が結構いる」なんて、まるで見透かされてるみたいだ。また、「アイドル崇拝はネオ・フェティシズムであり、フェミニズムの思想なしには解読できない」なんて、普通じゃ思いつきもしない視点じゃない? 
上野千鶴子・文 高畑早苗・絵「あ・な・た・た・ち〜自我からの癒し〜」
 「あなた」の中に散在している「わたし」を見るという発想に、そこはかとない人間愛を感じる。 
「オニババ化する女たち」
 身体パフォーマンスを高めることの大切さはよく分かったし、今の性教育が性の素晴らしさを若者に伝えきれていないってことも再認識できた。「親になるということは、子どもに許されること」というフレーズも考えさせられて心に残った。だけど、体調を整えるだけで全てが解決するかのような言い回しはやっぱりオーバートークじゃないだろうか。
三砂ちづる「昔の女性はできていた〜忘れられている女性の身体に”在る”力〜」
 わずか3世代前の女性までは月経血のコントロールができていた。自分自身の身体をしっかり見つめ鍛えると、こんなことまでできるのか〜っ。
ウィルソン・ブライアン・キイ著/植島啓司訳「メディア・セックス」
<前半> メディアはサブリミナルテクノロジーによって斯くも巧妙に我々をコントロールしているのか!ジャンセン(水着会社)の広告やリッツのクラッカー、レンブラントの作品や選挙キャンペーンの印刷物に至るまで、そこに組み込まれた暗号は、我々のポテンシャルを刺激し、将来の行動的対応をも引き起こすのだという・・・(ペーツル効果・アラームクロック効果と言うらしい)。また、性的抑圧がメディアによっていかに強化され、それがいかに強大なマーケットになり得るかということも詳しく説明されていて、興味深かった。「両親や学校や政府が若者たちに性について教えようと教えまいと事態は全く変わらない」という著者の意見には疑問も感じるが、消費が自己イメージの欠如からなる心理的充足の探求であることなどがよく分かった。それにしても、アメリカがあんなにも性的エネルギーを失っていたなんて・・・いや、自由の国アメリカだからこそ退廃を逃れることができなかったというべきか。
<後半> アメリカ社会が想像以上に様々なタブー意識を持っていることが分かって意外だった。「ダーティ老人シンドローム」や「ダーティ老女シンドローム」なんて言葉からも、随分差別的で保守的な社会のパラダイムを感じる。我々はこれからも性的オブジェと見なされることを甘受してはならないし、肉体的コンプレックスを促すメッセージへの怒りも忘れてはならないと思った。
阿部輝夫「ヒトから性を奪う現代社会」「性を怖がる男たち」
 精神科医。性が生きるためのエネルギーであり、人が生まれてから死ぬまで性と共にあることは自明だが、裸の王様然としている男が減ったからって、それが何?女さえ見れば発情し、女の前では強くなければならないなんて強迫は、人類にとって少しも建設的ではないし、現代の男女の力関係を嘆いても、嘆いてもらえるほど女性は強くも恵まれてもいない。
段林和江「つぶせ!強姦神話」
 これまで数多くの裁判によって、被害女性たちがいかに多くの血と涙を流してきたかがよく分かる。これまでの裁判は被害者の人権と性的自由を守るためではなく、男性優位社会の秩序(女の貞操)を守るために行われてきた。性のダブルスタンダードを、公平であるべき司法の場にまで持ち込み、人権と性的自由が踏みにじられた強姦被害者を、裁判で更におとしめるという、この理不尽さ!被害者の抵抗がいかほどであったかで、相手への蔑視から生まれる性暴力への制裁が免除されるなんて、考えただけで身震いがする!
高城響「『やおい』にむらがる少女たち」
 著者によると、女という自己の性への嫌悪によって、少女たちは美少年愛に向かうのだという。そして彼女らは、ジェンダーを乗り越えようとしているように見えて、実は極めてまともにジェンダーに縛られているのだという。
ぐるーぷアミ「男たちの生む 生まない」
 両性が対等なパートナーシップを育てない限り、日本の出生率はまだまだ下がる。出生率の低迷は、男達が自分の都合を最優先に、女性を犠牲にして生き延びてきたツケなのだ。
伏見憲明「スーパーラヴ」
 ゲイを生き抜いてきた彼だからこそ見える、男社会の矛盾に鋭く切り込んだ評論。ここまで冷静に他人の情念を分析できる伏見さんって、すごい特技の持ち主だ。女もゲイも誇りを持って生きなきゃならない。 第3章の「ゲイ感覚でいこう!!」には、大笑いしてしまった。日常生活をこんなにエンジョイできる彼の感性を見習いたい。
速水由紀子「援助交際を選択する少女たち」
 人から与えられたのでない自分だけの生き方を選択する大人だけが、居場所のないせつなさを知る彼女たちに、生き方のモデルを示すことができるのだと思う。

Abuse
ロン・オグレディ「アジアの子ども買春と日本」
 財力を誇示し、善人ぶって(ニセの孤児救済の施設までつくって)子どもを買うペドファイル(小児性愛者)たちに、ムカムカし通しだ・・。子どもたちの心身に一生立ち直れないほどの傷を負わせ、若年死に追い込んでもなお子どもを買い続ける組織集団、何て残虐で卑劣で傲慢で貪欲で恥知らずなのだろう。この世にこれ以上の不条理があるだろうか?あまりに凄まじくて言葉にならない。今日も何百万人もの子どもたちが、恥知らずな獣の毒牙にかかり、心身に深い傷を負わされ苦しんでいる。4歳の子どもまでもが性産業で搾取され(享楽の道具として消費され)、命を縮めている。露見してもわずかな保釈金で加害者たちは人生を取り戻し、子どもだけが全てを奪われる。こんなことがいつまでも続いていいはずがない。この怒りを一刻も早く、一人でも多くの人と共有しなければと思う。
ビヤネール多美子「増え続ける女性への性的暴力の背景と対策」
 なぜ男達は暴力という最悪の手段を使ってまで女性への支配を強めようとするのか、また、女であるというだけで、なぜに我々は命を脅かされるほどに見下されなければならないのか、愚か過ぎて怒りと虚しさでいっぱいになる。厳しい法律で規制しても人々の人権意識の進化が追いつかないというスウェーデンの現状報告ももどかしい。
ビヤネール多美子「児童ポルノとペドファイルをめぐって」
 タイでは児童売買春で逮捕されるのはペドファイル(小児性愛者)たちではなく、子供たちの方だという。搾取される子供を取り締まっても犯罪が消えるわけもないのに!人の一生を台無しにした者を不問にするとは、策略と言わずして何と言うのだろう??3月31日は、「性的虐待に遭った世界の子どもたちの日」なのだそうだ。数百万とも言われる被害に遭った子供たちには、一日も早く幸せになってほしい。もうこれ以上、加害者は(もちろん被害者も)一人だって生まれてほしくない。
吉田タカコ「子どもと性被害」
森田ゆり「子どもと暴力」
サリー・クーパー「『ノー』をいえる子どもに」
リチャード・ダンブロジオ「ローラ、叫んでごらん」
デイヴ・ペルザー「”It”と呼ばれた子」
ジョディ・ブランコ「いじめという生き地獄」
 激しい暴力にさらされながら生き続ける主人公、なんて痛々しく、なんて強いのだろう。学校とは、教師とは、かくも無力なのだろうか?
マリー・ウァブス「もうこわくない」
 嫌なことは嫌と、勇気を持って言える子に。自己決定力を持った子に。それが性教育の基本なんだと思い出させてくれる本。
「とにかくさけんでにげるんだ」
森田ゆり「あなたが守るあなたの心・あなたのからだ」
 時間をかけて、ゆっくり子どもに読んであげたい本。

Religion
絹川久子「聖書のフェミニズム」
 マグダラのマリアは、なぜ罪の女と呼ばれねばならなかったのか。イエスの最期を見届け、復活にも立ち会った希有な存在の彼女が、十二使徒の一人にすら数えられず、罪の女とおとしめられ、辱められねばならなかった理由・・・、それは、紛れもなく、彼女が女性であったからではないのだろうか。 
遠藤周作「イエスの生涯」
 何て興味深い切り口なのだろう。神格化される以前の、人間イエス・キリストの追究。今まで宗教色ムンムンと勝手に思い込み敬遠していたが、極めて冷静で中立的な語りで、まるで歴史小説を読む感覚だ。乙女峠のカトリック信者たちが、拷問を受けてもなぜ棄教しなかったのか、何を切望し、待っていたのか、失意と絶望の中で夢見たものが何だったのか、読み解く糸口がちょっとだけ見えてきた気がする。
遠藤周作「キリストの誕生」
遠藤周作「聖書のなかの女性たち」
 聖書の中には悲しみを背負った女性だとか、優しさや寛容さばかりが目立つ定型化された(女性性が強調された)女性ばかりが登場する、それがなぜなのか昔から不思議だった。男性の手による福音書が、女性の自由を奪うのに一役買っていると思っていた。しかし、遠藤の解釈は少しだけ違っていた。男性でも女性の背負う呪縛に共感できる人がいるのかと、ちょっと救われる気がした。 
遠藤周作「深い河」
 冬に訪れたインドの光景が目に浮かぶ。そう、インドは人間の真実を問う国だった。ガンジス河は、全てを包み込む河だった。遠藤の示す(作中人物の語る)キリスト解釈も、とても分かりやすかった。インドが一層好きになった。著者70歳の作品。遠藤作品の集大成なのかもしれない。 
クシティ・モーハン・セーン著 中川正生訳「ヒンドゥー教」
 インドをなるべく内側から見つめてみたいと思って読んだ本だが、宗派や歴史など難解だった。が、気の遠くなるような、すごい歴史の国だということはよく分かったし、ヒンドゥー教が心の広い、真理を求める魅力的な宗教であり、哲学、学問であるということも分かった。
立川武蔵「ヒンドゥー教巡礼」
 神話の説明部分が多く、神話のおさらいにはなったが、聖地ごとの歴史や著者の精神性の高まりなどを知りたかった私にとっては、ちょっと期待外れ。
中村元「ブッダのことばスッタニパータ」
 ブッダの言葉、ひとつひとつがずっしりと、心に染み込む。感じ、守り、伝える人がいることで、ブッダの心は永遠に生き続ける。「むさぼることなく、いつわることなく、渇望することなく、見せかけで覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。」・・・・。
「ダ・ヴィンチの暗号 99の謎」
 純粋な気持ちで信仰を深める人がいる一方で、世界を支配するための方便にしてしまう権力者も多いってこと、(歴史はその繰り返しだったということ、) もっと我々はシビアに見つめた方がいいんじゃないだろうか。
溝口史郎 著「ボロブドウル遺跡のレリーフに見るシャカムニの生涯」
 お釈迦様って私にとってはとても人間的で平和的なイメージだったので、ここまで神格化されていたとは意外だった。それに、さながらアンコールワットで見たラーマーヤナのように、建造物そのものがマンダラとなっていて、遺跡と言うよりは修道場。ヒンドゥー教より歴史の浅い宗教なのに、ヒンドゥー教遺跡よりずっと以前にこれほどの建造物をインド以外の地に建てるとは、ブディストもすごいパワーだ。
清水俊明「石仏 庶民信仰のこころ」
 如来や菩薩の違いも分かったし、印の謎も解けたので、なんだかスッキリ。 それにしても、全国各地にこんなにも魅力的な石仏があるなんて。退職後は、是非とも石仏巡りの旅に出たい! 
瓜生中 著「仏像がよくわかる本」
 イラスト入り。仏像の細かい部分の意味がよく分かる。
外山晴彦「野仏の見方」
 お堂もないが、ないからこそ、より多くの人に愛されるのかもしれない。
歴史の謎を探る会 編「日本の三大宗教」
武光 誠「知っておきたい日本の神様」
武光 誠「日本人なら知っておきたい古代神話」
  古事記・日本書紀の記述の一致点、矛盾点などが整理してあって、分かりやすかった。
宇野 正人「祭りと日本人」
 「国際人であればあるほど日本人でなければならない」・・・う〜ん、まさしく。祭りには日本人の心が凝縮されている。言葉では分からない。共通体験、感覚の共有こそが唯一の伝承であり、理解なんだよね。
宮家 準「霊山と日本人」
 例えば、宮沢賢治の「注文の多い料理店」に込められた生命観・宇宙観・・・なぜ2人の紳士は山猫に食べられそうになったのか、なぜ終末で紙くずのようにしわくちゃになった顔が元に戻らなかったのか・・・等々、全ての生が山の神の前において平等ということを前提に読み解くと、スッキリする(←教材解釈において語り尽くされてきたことだけど・・・)ということが、この本を読むことで再確認できた。日本人にとって神道は「禊の宗教」と言われるが、まさしく、邪念を打ち捨て、心清らかに生きることが、霊山(信仰)によって導かれるのだと思った。
小林よしこ「聖石巡礼〜日本の巨石遺構とぺトログラフを訪ねて〜」
 この日本に古代ケルト人のオガム文字??す、すごい。もしかしてヨーロッパでは根付かなかった輪廻転生説も、八百万の神々への信仰も、日本人に引き継がれたってことなのかもしれないじゃない。古代の人間はこんなふうにして、自然を畏れ、自然に溶け込みながら生きてきたんだって思うと、自分も底知れぬパワーのレセプターになれるかもしれないって妄想が湧き起こる。 
田中四郎「やわらかなアラブ学」
 ほんとにやわらかくてスイスイ読めた。こんなふうに教えてもらうと、異文化も身近に感じる。アラブが女性に厳しい、かなりのオトコ社会ってこともよく分かった。
片倉もとこ「アラビア・ノート〜アラブの原像を求めて〜」
 異質なものを認め尊重する・・・それは、難しそうでいて、実はとてもシンプルなことだ。人間が哲学的であるための基礎力のひとつだと思った。

Phychology/Philosophy
平野広朗「闘いと癒し」
 なんて歯切れのよい生き方と文章。どことなくモヤモヤ感じながらもその正体が分からずにいたもの、それが一刀両断にさばいてあるとでも言いましょうか。
國分康孝「自己発見の心理学」
 國分康孝ってこういう人だったのか?マイノリティへの何たる配慮のなさ!父権的恩情主義の人生観がありあり。
曽野綾子「夫婦、この不思議な関係」
澤田瑞也「共感の心理学」
大野 裕「うつを治す」
 鬱病の解説書として、とても取り付きやすい本。いつも思うことだが、病気と健康は紙一重。(病気と健康はグラジュエーションと言う方がぴったりかも?)人間関係の保ち方など、普段感じる気持ちの落ち込みに対しても有効と思われる手立てが記されており、役立ちそうだ。
堀切和雄「娘よ、ゆっくり大きくなりなさい〜ミトコンドリア病の子と生きる」
 我が子の命が輝くことを、ただひたすらに願う、それが親の原点なんだと再確認。
石崎朝世「落ち着きのない子どもたち」
 子供たちを決して集団から孤立させないこと、そして子供たちに納得できる言葉(言霊)を教えていくことが、教師の仕事なんだと思う。
土師守「淳」
 著者は、神戸連続児童殺傷事件の被害者 土師淳くんの父親。涙ボロボロで読んだ。犯人への怒りでいっぱいのはずなのに、冷静に、客観的にしたためられた文章が、悲しくてたまらない。
少年Aの父母「『少年A』この子を生んで」
 神戸連続児童殺傷事件の犯人、酒鬼薔薇聖斗(少年A)の父母の手記。前半部分は、共感や同情で胸がいっぱいだったが、後半の生い立ちの記録に至ると、親として人間として、やはり何かが間違っていると感じた。自己愛だけで言葉が紡がれている。繰り返される自己弁護。万引きをしたり暴力事件を起こしたりする子どもの心の闇に迫る努力を、彼らはしたのだろうか?読み終えて、後味の悪さだけが残る本。
M・スコット・ペック 著 ・ 森英明 訳「平気でうそをつく人たち」
 嘘をつくって、自分のアイデンティティから目をそらし、自分の成長を妨害し、自分を欺き続けるということなんだよね。
中原中也詩集「汚れつちまつた悲しみに」
 死を見つめた詩人の言葉に、ズキズキと胸が痛む。
綿本彰「シンプル・ヨーガ」
 ヨーガの8つの基本理念「アシュタンガ」をシンプルに解説。これからヨーガをする人に最適の入門書。自分の身体が要求しているポーズを知り、呼吸法を身に付け、柔軟でコントロール可能な精神を養っていきたいものだ。

Phsics
桜井邦朋「宇宙には意思がある」
 今まで物理学ってとんでもなく無機質な学問かと思っていたが、ニュートン以前も今も、結構霊的(人間的)なんだと分かって意外だった。
柳田理科雄「空想科学読本」
 とっつきは面白いんだけどね・・・。「いいじゃん、それでも。」って思える部分も多かった。「科学の子」じゃないもん。

Biology
竹内久美子「BC!な話」
 著者は動物学者。所々に変なバイアスは感じたものの、おもしろくっておもしろくって引き込まれた。何でも、精子の数は毎回かなり(平均で3倍近く)の違いがあり、それを決める三大要因は、前の射精からの経過時間と、パートナーとの共有時間の割合、パートナーの体重なんだそうだ。浮気の場合は精子の数が多いだけでなく、泳ぐ速度等、質も違うらしい。また、カリブ海に住むブルーヘッドという魚は、括約筋が精管の出口にあり、メスの身体の大きさに応じて精子の数を調整しているという。ラットは、他のオスの精子の進入を防ぐため、放出された精子の一部が膣の入り口付近で固まって栓を形成するんだそうだ。ほ〜♪ 
竹内久美子「男と女の進化論ーすべては勘違いから始まったー」
  様々な動物の生態を紹介しながら、人間の行動や身体的変化を分析していて、くだらない(失礼!)部分も多いが、おもしろかった。結局人間も、リチャード・ドーキンスが言うように利己的遺伝子に支配されているんだなって納得できる本。 
本川達雄「ゾウの時間 ネズミの時間」
 何から何まで妙に納得できた本。
長谷川寿一「奇妙なサルに見る互恵性〜進化行動生物学からのアプローチ」
 人間が、人間同士の互恵的関係に基づき発達したという視点は、まさしく性善説を物語っていると感じた。また著者は、動物の命の価値を考えることが、人権強化に繋がるという。深く共感。知性とは、けだしモラルの問題なのだと思った。
久恒辰博「『幸せ脳』』は自分でつくる」
  20歳過ぎても脳は成長できるんだ。よかった〜。 
デボラ・キャドバリー「メス化する自然」
 ワニなどの野生生物に表れた生殖異常や、エストロゲンやエストロゲン様の環境ホルモンが及ぼす人間の生殖への影響について。地球上の生き物の繁栄は、もうこれ以上続かないんじゃないかと思えてくる。

Education
名取弘文「通信簿と評価権」
 教師の評価権は、体制側の社会的機能でもある。

Art
岡部昌幸監修 「ピカソの正しい鑑賞法」
 ピカソのことならもうお任せ下さい!
嘉門安雄 「ゴッホの生涯」
 なんて繊細で献身的な人なんだろう。彼の憧れの地、日本に住んでいることが、何だか嬉しい。
新潮美術文庫29 「ゴッホ」
 悲しみをたたえた天才、それがゴッホだ。現実世界を模写するために絵を描くのではなく、魂を表現するために、ゴッホはカンヴァスに向かう。天寿を全うできず、つくづく残念な画家だ。
ジル・ネレー 「サルヴァドール・ダリ」
 言葉の全てが、生き方が、全てシュール。まさしく奇才(鬼才と言うべきか)。
新潮美術文庫13 「フェルメール」
 この世に30数点しかないフェルメール作品を32点も掲載。しかし、謎解きがいささか消化不良(かも?)。絵に隠されたメッセージが分かれば、もっともっと楽しめるはず。
ベルナール・シャンピニュル 「ロダンの生涯」
 妥協しないロダン、とことん追求するロダン・・・。かっこよ過ぎる。「努力」とか「情熱」って言葉の意味が、今こそ分かる。すごい芸術家だ。
日経ポケット・ギャラリー 「シャガール」
 
集英社 現代世界美術全集「ロートレック」「ドガ」「アンソール/マグリット」「ブラック/レジェ」
 
小島章司「フラメンコへの招待」
 フラメンコとは、「深淵なる闇の空間」なのだという。フラメンコと日本の感性との融合をめざし、習得した技術を解体・再生することで自分のフラメンコを極めようとする姿、いろんなスポーツとか芸術とか、人間としての生き方全てに共通する姿なのだと思った。

Handicap
大野智也 「障害者は、いま」
 生きることの意味を自分に問いかけることなくして、人の痛みなど分かるはずもなく、子供の心を揺さぶる授業などできるはずもないと思った。
南日本放送ハンセン病取材班編「ハンセン病問題は終わっていない」
武田徹「描かれたハンセン病」
 ハンセン病文学が、絶望と怨恨しかないとあらかじめ見込んでかかる読者との共犯関係で成り立っているとする著者の指摘は、どう見たってやっぱり私も加害者だと納得できる指摘だ。ハンセン病の学習をしていると、どうも涙腺が弱くなるが、リアリズムで読み解いていく努力を忘れちゃならない。
瓜谷修治「ヒイラギの檻」
 国策に従順な市民、売れる記事だけを追うジャーナリスト、みんな共犯だ。私たちが患者と家族を傷つけ続けた。全ての人に読んでほしい名著。
北條民雄「いのちの初夜」
 24歳、早過ぎる作者の死。どうしてもどうしても母心で読んでしまう。命とは、何と尊いものなのか。みずみずしい感性とみずみずしい文体。どの作品にも生への憧れと人間尊厳の精神が滲み出ている。川端康成との師弟関係も初めて知った。それではなぜ康成は後年自殺したのか不思議でたまらない。
谺雄二「ライは長い旅だから」
 心の底、命の源から発せられる怒りと苦しみが、心に突き刺さる。納骨堂に眠る引き取り手のないたくさんの遺骨、ホルマリン漬けの胎児・・・、感染力はごく弱く、遺伝病でないことが知られていたにもかかわらず、特効薬も開発されていたにもかかわらず、平成の世まで受け継がれたらい予防法の何たる罪深さ。誤った政策で傷付いた全ての人が救われるまで、らい予防法廃絶は、まだ終わっちゃいない。
遠藤比呂通「らい予防法の法律上の問題」
 怒りがふつふつと湧いた。必要もない隔離と断種を強制した張本人の光田健輔が、なぜ「らいの父」なのか、理解できない。彼がなぜ、良心を持った一人の医者として曇りのない目で患者を見つめることができなかったのか、また、あれほどまでに強烈なパターナリズムがどこで彼に植え付けられたのか、疑問も更に深くなった。
寺島萬里子写真集 「病癒えても〜ハンセン病 強制隔離90年から人権回復へ」
 ここに紹介されている人々はみんな高齢だ。もう時間がないのに、彼らの人権はいまだに取り戻されず、強制隔離がなくなった今も社会からの隔離はまだ終わってなどいない。私にできるのは、子供たちに伝えていくこと・・・隔離がなくなる日まで、ずっと伝えていきたい。 
沖浦和光・徳永進編「ハンセン病〜排除・差別・隔離の歴史」
 ハンセン病なるがゆえに課せられた苦しみの歴史が詳しく解説されており、我々日本人の歪んだナショナリズムがこの悲劇の本質にあることがよく分かる。世界中の人が知っていた事実を日本人だけが誤認し、誤った政策を見逃していた(=差別を認め存続、助長させていた)とは、なんてひどい話なのだろう。
大谷淳子「ありがとう大五郎」
 泣きながら読んだ。今年6月で第15刷。
石井政之「迷いの体〜ボディイメージの揺らぎと生きる」
 
 「変身するカツラカウンセラー 円形脱毛症」 〜  この章の主役の阿部さん、この頃は元気で頑張ってたんだなぁ。自分の経験を生かし、たくさんの人を助けていたのに、自殺(出版の翌年)してしまうなんて・・・。人の何倍も苦しんだけど、幸せを求めて人生を全速力で駈け抜けていた。あんなにもがきながら自分らしさを探し続けてた人なのに、「普通」でないという認識を乗り越えられなかったということなのだろうか?「普通」に暮らすことがどういうことなのか、考えずにはいられない。  

「五体不満足のリアルなボディイメージ サリドマイド」 〜 障害は、克服すべきものなどではない。ここでも乙武さんの「五体不満足」が引き合いに出されていたけれど、我々が目を向けなければならないのは、障害者と健常者との共通点だとか、さりげないふれあいとかだけじゃなく、個々のボディイメージに寄り添い、リアルに感じ合うってことなのだ。薬害が、今後いっさい起きませんように。

 「フェニックスは飛んでいるのか?ヤケド・サバイバー」 〜 ヤケドを負った日を境に、昨日までとは違った自分を生きる・・・マイナスからの再出発・・・アイデンティティの完全崩壊と再構築・・・私には想像もできないことだが、そうやって自ら新しい人生を築き上げ、物言わず苦しむ何万人もの人を励ましてすらいる、・・・そんな人が現実にいることを知り、ショックを受けた。
高橋聖人撮影、茅島奈緒美構成「ジロジロ見ないで〜”普通の顔”を喪った9人の物語〜」
 心が押しつぶされそうに痛い。顔に負った熱傷や海綿状血管腫(盛り上がるアザ)、単純性血管腫(赤いアザ)、リンパ管腫、レックロングハウゼン病(日本にも3〜5万人もの患者さんがいるそうだ)等々の理由で、人の視線に傷付き続けてきた9人の写真と自伝。ほんとによく語って下さったと、ありがたく思う。
「見つめられる顔〜ユニークフェイスの体験〜」
 当事者の心に触れることがどれほど貴重か、そして当事者が声を上げることがどれだけ意味深いことか、改めて思った。生きづらさに苦しみながらも気持ちを整理し考えをまとめ、手記を寄せた16人の人たちに、心から感謝したいし、ユニークフェイス(自助グループ)を立ち上げ推進している人たちにも、心からの拍手を贈りたい。
木藤亜也「1リットルの涙」
 主人公は、25歳10ヶ月で他界。彼女の生は苦痛に満ちたものだったが、懸命に生きることで多くの人を励まし支えた輝かしい生だったと言える。恋もし、子どもも産み、自分の手で育て・・・、自分(私)の人生がどんなに恵まれたものだったかがよく分かる。

Disorder
斎藤学「アダルト・チルドレンと家族」
 興味深かったのは、「必要とされる必要」につき動かされて生きる共依存(コ・ディペンデンス)についての解説だ。自分を直視することに耐えられない人間が相手を利用し支配しているという共依存の本質を、社会全体で見えなくしてしまっているという指摘。日本の社会的風土は共依存に無批判であるばかりか、近年まで(ひょっとすると現代も)、しおらしいとか奥ゆかしいとかいう誉め言葉(?)で女性の自立を邪魔し共依存を支えてきた。もう騙されちゃあいけない。
赤羽潔「脳死願望の果てに」
 18歳の若者の自殺までの軌跡。彼の自殺は、周囲の大人達への疑問符だ。家族も学校も病院もカウンセラーも、なぜ苦悩する魂を救えなかったのか、自殺未遂を繰り返しているのに、なぜ薬物療法を試みなかったのか、大人自身がどこまで自らを見つめていたか(またはごまかして生きてきたか)。著者は、その時彼に出来得る最大限の努力をしたとは思うけど、魂に触れていないようで悔やまれる。その追想は、時として言い訳にすら聞こえてくる。

Adaptation
ユン・チアン・著 土屋京子・訳「ワイルド・スワン」
 今まで満州の歴史も蒋介石のことも、学校で習った以外に何ら知らなかった私も、これを読んでちょっとだけ詳しくなった。纏足の作り方もリアルかつグロテスクで、読んでいて息苦しかった。名もなく地位もなく、この時期の女性はただの商品に過ぎない。性差別に苦しむ女性の歴史を知ることは、私のマイノリティ性の確認でもある。
馮驥才 著 納村公子 訳「纏足」
 小足にも大変な奥義がある。命よりも大切な小足だから当然と言えば当然だが、そのきまりのあまりの細かさにビックリ。社会全体で纏足を支え、全ての女性がその罠にとっぷりと組み入れられていったこと、第三者だから冷ややかに見ることができるのだけど、その時代に生きていたら、やっぱり私も必死になって纏足をするのだろう・・・。
雇蓉・葛金芳 著 尾鷲卓彦 訳「宦官」
 読む前は、手術そのものはFGMより簡単なのではないかと思っていたけど、案外そうでもなくってビックリだった。初期なんて、手術による死亡率は75%、手術法も野蛮極まりなく、人間の残酷さに吐き気がしそうだった。纏足もFGMもそうだが、なんで古今東西こういうことが起こるのか、人間の本性を知る教材のような気がする。
山口椿「中国拷問残酷物語」
 拷問と言うよりは、猟奇とか変態って言葉がピッタリの衝動殺人の物語。

Biography/History
根本 敬「アウンサンとアウンサンスーチー」
 総選挙でNLD(国民民主連盟)が圧勝しても、軍事政権は政権委譲を拒否し、新憲法の制定を強行しようとし、弱者の政治的発言は一切認められず、不平等は一層助長・・・。今の日本とオーバーラップする。
「ガンジーの実像」
 ガンジーって、こんなにも人間くさく、魅力的な人だったのか。インドと諸外国の違いや、どれほどの差別を抱えてきた国なのかも、うつろながらも分かってきた気がする。 
小熊英二「神話をこわす知」
 著者の誠実な人柄が滲み出た文章だった。自己の内部にある、そうありたくはないという否定的なイメージの投影が実は他者批判であるということや、歴史観が現代の必要性から生み出され正当化されがちであること、自己を相対化する視点がなぜ必要であるかなど、分かりやすく述べられており、著者自身の内部にある神話にも自覚的で好感が持てた。 
関 裕二「卑弥呼はふたりいた」
 ほんとにもう、とんでもなく難解だった。なんでこんなにもたくさんの名前が登場するんだか。1人の人に5つも6つも名前があり、ややこしいの何のって。読みはしたものの、理解できていない部分も多いと思うが、古事記・日本書紀が中央政権の思惑によって、ここまでも大胆に、しかも言い訳がましく改ざんされていたことには確信が持てた。収穫だったのは、九州北部と鳥取、東北でだけ発見されている装飾古墳についての理解が深まったこと。ヤマト政権と装飾古墳にどんな関連性があったのか、ヒントを得ることができて嬉しかった。
日下八光「東国の装飾古墳」
 
玉利 勲「装飾古墳紀行」
 こんなにも素敵な遺産が身近にあったとは、今まで少しも知らなかった。これらの古墳、全部見たいと思った。
森 貞次郎「装飾古墳」
 古墳の営まれた土地の歴史や暮らしぶりもよく分かった。大陸との交易の玄関だった九州で、それでも独自の文化が花開いたことに、人間の力強さ・したたかさを感じる。
柳沢 一男「描かれた黄泉の世界 王塚古墳」
 たくさんの写真やイラスト入り。文様の意味や装飾の起源・経過など、大変分かりやすかった。古代人の死生観と地道な努力にぐいぐい引き込まれる。
白石 太一郎「古墳とヤマト政権」
 謎解きの楽しさだ。日本に残るたくさんの古墳の分析を通して、ヤマト政権の支配力の推移や地方支配システムの変容、都の在処、古代人の考え方など次々に解明していく小気味よさ。
八木 充「古代日本の都 歴代遷都の謎」
 信心深く、畏れやすく、優しい日本人の心理が遷都を続行させたのかもしれないと思った。実利的な視点からだけでなく、もっと心理面に目を向けなければならないのではないのだろうか?
滝沢洋之「吉田松陰の東北紀行」
 吉田松陰が生涯に行った4つの大きな遊歴のうちの1つ、脱藩してまで行った東北歴遊を、著者(会津高校教師)が追体験のもとで解説。藩主敬親の印形も待たず、一番過酷な真冬という季節にも関わらず、それでも急いで行かなければならなかった22歳の松陰の情熱、憂国の情に感銘を受ける。驚くべきペースで歩き、たくさんの人に会い、見聞を広め、記録し、その魂をたくさんの塾生に伝え繋いだ。萩市の写真も満載。戊辰戦争以前の、会津と長州の繋がりも興味深い。

Travel
「ムー大陸の謎」
 ポリネシア・ミクロネシア、そしてイースター島は、ムー大陸の高い山だった!
「河童が覗いたインド」
 全文手書きとスケッチの旅行記。有名な観光地の情報が詳しい。「自分への嫌悪感で吐きそうになった」「僕自身が彼らの加害者であるような意識になって狼狽する」・・・などは、まさしく!私がインドで感じた感情そのまんまだ。開発国に対する先進国の責任とか、関わり方とかも含め、インドは人間の原点を見つめさせてくれる国なんだと思う。
「インドで考えたこと」
 荒削りな文章が、シロウトっぽくもあり、正直で純粋な印象を醸し出している。
「私たちのインド」
 インド人の暮らしぶりへの疑問など、共感しながら読み進んだ。しかし、やっぱり日本人の視点に過ぎず、何だかこれも、求めていたものとちょっと違うなぁと思った。
「ヴェトナム 豊かさへの夜明け」
田辺寿夫「ビルマ〜発展のなかの人びと」
こんなにも日本との繋がりの深い国だったとは。
藤尾明憲「行きたい!マチュピチュ〜77回目のマチュピチュ」
「女性にも安心満喫の裏ワザ生情報 1日5000円ぜいたく旅 タイ」
崎南海子・文 中村冬夫・写真「鎌倉、めぐりあいたい風景」
 長男YYと2人で巡った鎌倉の、あの日の記憶が瞼の裏に甦った。
Vegan
エリック・マーカス「もう肉も卵も牛乳もいらない!」
 特にパート2の「家畜たちの真実」は、人間として知らねばならないことばかりだ。人間の知性は、他の生物を犠牲にし、搾取し、自分達だけが繁栄するためのものではないはずだ。どんな生物にも、その生物なりの生があるわけで、それを人間の都合でコントロールすることが、どれほど不遜で許せない行為か、今一度考えてみなければならない。それは自分の健康を守るとか、長生きしたいからとか、そんな身勝手な理由ではなく、この地球に魂を持って生まれた1つの存在としてだ。悲しく、苦しい内容だが、たくさんの人に読んでほしい。
鶴田静「ベジタリアンの文化誌」
 これは驚きだった。ベジタリズムとフェミニズムとの関係が、明快に論じられていた。性による分業のスタイルと肉食は、このような結び付きだったのか!健康で生き生きと力強く(←「ベジタリアン」の本来の意味)生きるために解決すべき問題が、こんなふうに同じ根を持っていたとは。そして、宮沢賢治の「よだかの星」も「注文の多い料理店」も、肉食嫌悪(生物間の不平等感)がベースだったのか。分かりそうで分からなかった世界観が、今頃になってようやく見えてきた。胸につっかえていた疑問が、「脱肉食」というキーワードによって氷解していく。 
 肉牛1頭を育てるために、人間10人分の食料となる穀類が消費され、その10人は飢えて死ぬ。もっと早くに知っていれば救われた人命も(もちろん牛命も)あったのだ。この先も、ずっと肉食をやめなければ、私の欲望は、生涯に何十人もの人を死なせることになる。
デヴィッド・ドゥグラツィア「動物の権利」
 人間とは、こんなにも傲慢であってよいのだろうか。よいわけがない。動物は人間のために生存しているのではなく、それ自体のために生きている。翻訳物なので分かりにくい言い回しもあったが、理性と良心に支えられた良書。「参考文献と読書案内」の他にも「日本の読者のために」という付録があり、読んでみたいと思える本がいくつもあった。
ハワード・F・ライマン/グレン・マーザー「まだ、肉を食べているのですか」
 解体後の牛の脳や血液、骨、ひづめばかりか、排泄された糞便まで、人間の食料となる肉牛に食べさせていたとは驚きだ。他の家畜の病死体なども一緒くたにレンダリング・プラントで処理され、浮いてきた脂は化粧品や石鹸にも加工されるとのこと。年間24億$の巨大ビジネス。これが、文明社会を支えている。お金とは、人間としての理性を失わせるほど魅力的なものなんだろうか。 
森達也「いのちの食べかた」
  部落差別は肉を穢れと見なした歴史と共にあり、戦争もまたアジアの民への差別心が根っこにある。差別心を核にして成り立つという点で、肉食と戦争はとても似ている。無自覚で麻痺して暴走する人間の愚かさよ。真実を知ることが、人間らしく生きるための第1歩なのだと思った。
蒲原聖可「ベジタリアンの医学」
 ベジタリアンと非ベジタリアンの健康比較だとか、食の効用だとか、とても分かりやすかった。動物由来の食物をいっさい摂らないヴィーガン以外、全ての栄養素は得ることができるんだから、感情的にはヴィーガンを目指したくはあるものの、サプリメントを摂らない以上はヴィーガンになるわけにはいかないわけで、結局、日本人の多くが最近までしてきた暮らし方が私には向いてるなと思った。ここのところ牛乳や卵を摂らなかったが、インディアン・ベジタリアン(ラクト・ベジタリアン)でいこうと思った。 
矢部武「アメリカのベジタリアンはなぜ太っているのか」
  差別心や克己心のなさなどの心の問題がクローズアップされていて興味深かった。  
ジョン・ハンフリ−ズ「狂食の時代」
 イギリスの食事情、告発の書.。BSEもヤコブ病も、起こるべくして起こった病気だ。モラルなき知は必要ない。
竹内久米司/稲津教久「経皮毒がまるごとわかる本」
 あらゆる日用品に配合された化学物質の害について。身に付ける(塗る)ものに無頓着であってはならない。
幕内秀夫「体によい食事 ダメな食事」
 次男Hりんが、「これ読んでみて。」と言って貸してくれた本。私もずっと感じていた「食」に関する不思議がいっぱい確認できた。同じ物を食べても太る人と太らない人がいることとか、ものすごく食べるのに痩せてる人がいることとか、子どもがなぜ巨大なウン○をするのかとか・・・。イヌイットなど、いっさい菜食しない人達が元気な理由等々・・・。我々が信じ、教えてきた栄養学なんて、食の働きの、ほんの一部、一面でしかないこともよ〜っく分かった。いろんな情報に振り回されず、昔ながらの日本食をめざし、しっかり食べていこうと思った。
日本消費者連盟「合成洗剤の話」
 これらの動物実験、かわいそう過ぎる。が、人間の身にも同様に現在進行形で降りかかってるのね・・。怖い怖い、お話だ。
フランク・オスキー「牛乳には危険がいっぱい」