+ + 津和野・乙女峠(キリシタン殉教地) + +

2006/6/10

 乙女峠は、明治維新後のキリシタン禁止令により改宗を迫られた長崎浦上のキリスト教徒たち(153名)が、幽閉収容された場所。当時、津和野藩は神道研究で有名で、当主亀井茲監が神道による教道教化に相当な自信を抱いていたため、幕府は浦上の信徒の指導者たちをこの地に預けたのだという。他にも、鹿児島・萩・名古屋等の20ヶ所に、約3400人の信徒が預けられた。

 当初は津和野藩出身の国学者 福羽美静の指導で改宗の試みが行われたが効果がなく、藩は方針を転換し、拷問による棄教を迫り始めたのだという。

 乙女峠で迫害を受け殉教した信徒は、明治6年の帰国までに36名。中には子どもの姿もあった。

 マリア聖堂は、その鎮魂のため、津和野教会神父パウロ・ネーベル氏(別名岡崎氏)によって昭和26年に建立された。
最近改築されたんだろうか。
きれいな建物だった。
苔生す急な坂を登ったところに、
マリア聖堂入り口があった。
池の氷を砕いて裸にして投げ込み、
息絶え絶えの者を引き上げて
火あぶりにして苦しめたりもした。
改宗を迫られ、立つことも横になることも叶わない、狭いかご(三尺牢)に閉じこめられた人もいた。
寒い冬に着る物も与えられず、食料は1日におにぎり2こ。
安太郎という若者は、明治2年真冬の1月10日に裸でこの牢に閉じこめられ、20日間耐えたが衰弱し、死亡したそうだ。
彼の頭上には、夜ごと青い衣装の女性が現れ、夜明けまで話をして慰めてくれたのだと言う。


マリア聖堂内部の祭壇

かぐわしい、お香の香りに満ちていた。
隅々まで、きれいにお掃除されていた。

 聖堂内には、殉教の信者たちの様子を印したステンドグラスがあった。「お菓子をあげるから、キリストは嫌いと言いなさい。」と誘惑され、断って死んだ5歳児モリちゃんのステンドグラスもあった。

<十字架の道>

<千人塚>
 マリア聖堂から千人塚(殉教者たちの墓)に続く600mの山道に、キリストの教えを説いた石碑が14基建てられている。
 墓碑に刻まれた3人の幼児たち(1〜3歳児)は、ここで生まれた子だったそうだ。母親が拷問のため衰弱し、お乳が出ないので、幼児たちも衰弱死したのだと言う。
 また、14歳の守山祐次郎は、杉丸太に十文字に縛りつけられ、その後裸にされてムチで打たれた。打たれるたびに、少年のキイキイ叫ぶ声が牢まで聞こえたそうだ。(少年は2週間後に死亡)

 前に来た時もそうだったんだけど、私はまたもやここでとっても複雑な気持ちになった。深い深い信仰心って、いったい何のためなのだろうか・・・・? 氷を浴びせられ、断食させられ、火にあぶられ、我が子にお乳を与えることも叶わず、それでも捨てることのできなかった信仰心・・・、心の自由とは、彼らにとっていったい何だったのだろう・・・?
 映画「ダ・ヴィンチ・コード」を思い出し、「権力者に都合よく構成・誘導されたキリスト教」と、「純粋な信仰」ってもののギャップを感じずにはいられなかった。