14:10ホーチミンに到着。時差は−2時間。ベトナムは、わずか5時間弱のフライトで着く、とても近い国なのに、何から何まで日本と違っていた。 |
最初に訪れたのは、ベトナム戦争の記憶を今に伝える「戦争証跡博物館」。私がホーチミンの中で一番行きたかったスポットだ。
入場料は1万VD(ベトナムドン)=約80円。
欧米人もたくさん来ていた。
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不発弾の一部。ベトコンは、これらを回収し、自分たちの武器として作り替えて使用した。 |
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無造作に見えるまでに、外にはたくさんの武器(大きいものだとヘリコブターや戦車、装甲車、攻撃機に至るまで)が展示されていた。 |
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土産物屋には、なぜだか武器のオモチャもいっぱいだった。中庭には、ベトナムの小学生が描いた平和をテーマにした絵が飾られていた。 |
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建物は6号までの部屋に分かれていた。
1・2号室は、アメリカ軍に従軍したカメラマンが撮った写真のコーナーだった。石川文洋氏や沢田教一氏の写真もあった。
名も無き兵士や民衆が死傷し、金持ちが潤う、それが戦争なのだと改めて感じた。
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3号室 |
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フランスの植民地だった時代に持ち込まれたギロチン台。ベトナム戦争では、アメリカ軍が南ベトナム解放戦線兵士(ベトコン)の処刑に使った。 |
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悪名高き、虎の檻。ベトコンの中でも強情だった者に、ひどい拷問を加えた部屋だ。左の黒いのは鉄の扉。この部屋の中で囚人は常に鎖で繋がれた。天井が檻になっていて、階段(写真中央)の上から監視したり、水や熱湯を投入した。 |
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そこにあった雑記帳に、オーストラリア人が書いていた言葉がとても印象深かった。I'm so sorry what we did.という言葉と共に、一緒に平和を創って行こうという力強いメッセージが添えられていた。平和って、誰かに創ってもらうものなどではなく、国や立場の違う者同士が手を取り合い、ひとりひとりが力を寄せ合って成し遂げていくものなのだと思った。
眉間にしわを寄せ、資料に見入っている私達外国人の横で、1人のベトナム青年がタバコの空き箱を展示場内にポイと捨てた・・・。 |
アメリカ軍は、ベトナム戦争中の1961年から71年までの10年間、当時の南ベトナム領内に除草剤1900万ガロンと、ダイオキシンを含む枯れ葉剤「エージェント・オレンジ」1200万ガロンを、上空から散布した。
ジャングルを枯らし、「どこにもいないが、どこにでもいる」ベトコンを根絶するためだった。
4号室は、その枯れ葉剤の影響を説明するコーナーだった。不勉強な私は、枯れ葉剤の被害はもう終わったことだと心の中で勝手に思い込んでしまっていたが、今でも奇形児は生まれ続けていることを初めて知った。ホルマリン漬けの二重胎児の標本もあった。
ソンミ村の大虐殺(1968年3月16日)の資料も多数あった。アメリカ兵(軍)は、ここまでクレージーだったのか!
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6号室 |
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当時、ベトナム戦争に反対していた、世界の人達が製作したポスター。日本語(共産党)のものもあって、ちょっとほっとした。 |
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「戦争証跡博物館」を見学した後は、フランス統治時代の建物、中央郵便局や聖母マリア教会、人民委員会庁舎などを見て回った。(「歩いていたら見えた」という方が正しいんだけどね。)
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旧南ベトナムの旧大統領官邸、統一会堂。独立宮殿とも呼ばれていた。 |
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1975年、解放軍が無血入城し、サイゴンは陥落した。 |
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ファッションショーなども行われる市民劇場。元はオペラ劇場だった。観光地もドンコイ通りも、電線がいっぱいだった。 |
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街は、オートバイに溢れ、ものすごい人の数だった。
交通マナーが悪く、信号機はあってもないのと一緒だし、排気ガスはすごいし、クラクションも鳴らされまくりで、ほとほと疲れた。バイクに2人乗りは当たり前で、3人乗りや4人乗りの人までいた。ヘルメットを被っている人は皆無。郊外に出る時は義務だが、町中ではしなくていいらしい。
バイクの人は、みんなお手製のマスクをしていた。 |
ベンタイン市場 |
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1914年にフランス人によって建てられた。
ここで、ものすごくしつこいおばさんに出会ってしまった。振り払っても振り払っても、とことんついて来られて商品説明され、大変だった。お店の人がディスカウントしそうになると、ベトナム語でケチもつけてきた。翌日も別の場所で会った時には、ぞ〜〜っとした。翌日なんて、「VD持ってないんなら、5000円と5000VDを両替してあげる。」なんて親切そうに言ってもきた。(1円=約150VDなのによ) |
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シェラトンからサイゴン川を臨む
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2学期よく頑張った(?)ので、自分にご褒美ってことで、ちょっと贅沢なホテルに泊まってみた。ここの所、ご褒美が随分多い(^^ゞ |
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メコン河は中国雲南省に端を発し、4,000kmの距離を流れているインドシナ最大の川。河口部はメコンデルタ地帯として果樹園や稲作が盛んだ。 |
6時にホテルを出発し、タクシーで中華街チョロンへ。
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チョロンは、ホーチミンの華僑の大半が住む町で、中心部から約5qの場所にある。 |
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チョロンの市場はまだopenしていなかったが、個人の物売りは見かけた。店を持てない貧しい人たちなんだそうだ。 |
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チョロンバスターミナルで、ミトー行きのバスに乗った。
予想通り、英語が全然通じなくて不安だったが、いい人だか悪い人だか分からないたくさんの人に取り囲まれ、いろいろ大声で教えてもらった。 |
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バスの中は、テレビの音がうるさく、冷房もないので排気ガス臭かった。座席はほぼ満席で、これでガイドブックに出てるみたいに動物まで乗ってきたら恐いな〜と思いながら出発を待った。約70qの距離が約120円だった。 |
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ミトーからは、初めてのバイクタクシー体験。このドライバーだけ英語がしゃべれた。 |
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舟着き場に行った。 |
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初めは1人30$って吹っ掛けられた。
そんなに高いわけないでしょーっ(怒) |
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別の小舟を1人12$でチャーターした。これでもちょっと高かったかも・・。この舟頭さんの夫は、日本人は高くなるんだと言っていた。正直な方・・(-_-;) |
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海みたいに広いメコン河。水の色は黄土色だった。12月26日に起こったスマトラ沖地震の影響は、幸い全くなかったそうだ。 |
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舟でジャングルに入って行った。
ベトナム戦争では、ここも激戦地だったそうだ。 |
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中州の小島では、いろんなフルーツが穫れる。右の方の赤いのは、タンロン(ドラゴン)フルーツ。 |
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沐浴してる人を1人だけ見かけた。
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中州の島、タイソン島の小川めぐり |
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ココナッツだけを食べていたというココナッツ教団の住んだ島、ココナッツ島。入場料が必要で、テーマパークみたいな龍のオブジェや見晴台があった。 |
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舟頭さん。笑顔がとってもキュートな女性だった。アートな爪に感心した。 |
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水上生活者の集落では、食器や服を川の水で洗っている光景に出会った。部屋は1部屋だけで、そこにたくさんの家族が身を寄せ合って暮らしていた。 |
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ココナッツ飴の製造過程も見学 |
ココナッツをドロドロに煮溶かして・・ |
棒の形に伸ばしていく。 |
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島には、椰子で造った家が何軒もあった。ハンモックで眠っている人も幾人も見かけた。 |
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首に巻いて記念撮影しないかと言われたが断った。 |
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中州の島で食事した。 |
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この魚、「象の耳」と呼ばれている名物の唐揚げで、あっさりしていておいしかった。 |
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象の耳は、生野菜と一緒にライスペーパーに包んで食べた。 |
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華僑文化の息づくビンタイ市場 |
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クルージングの後、バスでチョロンのバス停まで帰ったが、もうそこはものすごい喧噪の世界。人がわんさかいて、まるで神戸ルミナリエ状態。現地の人は、人垣をかき分け上手に歩いていたが、私たちは1歩も前に進めない。バス停からビンタイ市場まで、ほんの20〜30メートルの距離だったが、仕方なくタクシーで移動。親切な人がタクシーに合図してくれて、タクシーも人垣をかき分けて横に来てくれた。なんでそんなことが可能なのか不思議だった。
で、ビンタイ市場でサンダルだけ買い、タクシーでさっさと帰った。観光客の多いベンタイン市場より、随分安かった。(半値くらい) ドンコイ通りではフォーを賞味。たっぷりの牛肉と野菜入りで、たったの2,4$だった。 |
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「フォー」ってお店のフォー。おいしくて感動! |
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早朝、ドンコイ通りを散歩した。聖母マリア教会ではまだ暗いうちから早朝ミサが行われていた。公園で体操する人や水で体を洗っている人、歩道を掃除している人もいた。シェラトンの看守は眠りこけていた。静かだけど、人がいっぱいの朝だった。サイゴン川そばのチャンフンダオ像の周りは、既にかなりの交通量だった。さすがに観光客の姿はなかった。地元の人のためだけの時間が、そこには流れていた。 |
クチはベトナム戦争中、鉄の三角地帯と言われていた解放戦線の根拠地で、ホーチミンの北西約70qの地点にある。ここに、ベトコンとクチの人々が掘ったトンネルが保存されている。トンネルは、ザルと小さなクワだけでサイゴン川まで掘られていて、内部は何層にも分かれ、体の大きなアメリカ人が入れないよう、所々狭くなっていた。広さは約4300平方q、総延長は200q以上。一番上の層のトンネルは地上から3〜4mの地点にあり、100kg爆弾にも耐えられるよう設計されていた。
同じバスに、79歳の日本人男性が乗り合わせていて少し話したんだけど、彼は日本軍によってアジアの軍隊の基礎ができたとか、日本軍の侵攻は列強からアジアを守るために必要なことだったとか言っていた。しかし、その目は寂しげで、涙さえ浮かべていた。祖国への忠誠を尽くし、恐らくは苦しみながら年老いたであろう人に言うべきかどうか迷ったが、「正しい侵略なんてあり得ないと思います。」と、それだけは言っておいた。 |
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トンネル内部には、作戦会議室や病院、炊事場などの施設もあった。 |
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あっちこっちにトンネルへの入り口があった。 |
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水の流れる、ただの溝みたいに見えるが、ここも入り口。 |
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1 何にもないように見えるけど
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2 葉っぱをどけると小さな穴 |
3 ここにこうやって入る。 |
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私も挑戦。これ以上太ったら、もう出られない!井伏鱒二の「山椒大夫」をいきなり思い出した。 |
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ここの木は、枯れ葉剤ですっかり枯れていたが、戦後木を植えた。(だから小さい木ばかりだ。)ダイオキシンは、測定するとまだかなりの濃度だと言う。 |
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ゲリラに攻撃され、アメリカ軍が放棄した戦車 |
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中に、槍が立ってる落とし穴 |
これも落とし穴 |
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トンネルの中では、日本製のシンガーミシンで兵士の服も作っていた。ブリジストンタイヤでゴム靴も |
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この出口は広かったし観光用に階段もついてたけど、中は当時のままの穴だった。中腰で30メートル進んだだけで、足腰がガクガクになった! |
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炊事場。煙で敵に場所を悟られないよう、何重にも煙消しの工夫がされていた。 |
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中で武器を作ったりもした。 |
クチから帰ると、観光客でいっぱいのドンコイ通りやレロイ通りでまたお買い物。雑貨を買ったりアオザイをオーダーしたりして過ごした。(オーダーだから当たり前だけどアオザイはピッタリフィットでチョー満足だ。現地ならではの様々な布地がセレクトでき、料金もお安くて嬉しかった。)その後、飛行機でカンボジアへ入国。シェムリアップ空港はカンボジア第二の空港だが、日本で言うと石垣島空港くらいの小さな小さな空港だった。10月に即位したばかりの新国王と、1953年にカンボジアをフランスから独立させたシアヌーク前国王夫妻の大きな写真が飾ってあった。
カンボジアの人口は約1000万人、北海道の2倍くらいの面積の小さい国だ。カボチャはこの国から伝わったので、その名がついたらしい。
<地雷のこと>
地雷は世界中に約1億1千万個埋設されていて、20分に1人が消えようのない傷を心と身体に負っている。その30%は15歳未満の子どもたちだ。毎年1万人近い子どもたちが地雷を踏み、3人に2人は死に至る。死ななくても残りの人生を重症の身体障害者として送ることになる。地雷の被害にあった子どもの5人に1人しか就職することはできず、補助器具を支給される子もわずかだ。
カンボジアは、そんな国だ。迎えに来てくれたガイドのトーンさんに紹介され、シェムリアップの中心地だという所で食事した。お世辞にもきれいとは言えない。蚊も飛んでいて、刺されて病気になりやしないかちょっと心配になった。町並みは、思った以上に前近代的だった。大きな建物なんてまるでない。車はもちろん、バイクさえも少ない。タクシーも全く見当たらなかった。カンボジアは、何もかもがこれからの国なんだ。住んでる日本人はまだたったの100人だと言う。全てがこれから始まる国。そんな国に来ることができてよかった〜と思った。
その後、シェムリアップで一番大きいというオールドマーケット(これも想像と随分違っていた。小さい小さいマーケットだった。)で買い物をし、ホテルにチェックインした。カンボジアでも、プライベートバルコニー付きの豪華ホテルに泊まった。ご褒美だから仕方ない(?)んだけど、内戦が終わって復興に一生懸命の国で贅沢するのも申し訳ないような気がした。
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